書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』18


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第18回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 『聖本』や『天聖経』に見られる文鮮明師が直接語った言葉の分析を終えた櫻井氏は、「四 統一教会の信仰実践」として祝福と万物復帰の二つを扱う。まず、この二つのチョイス自体に恣意的なものを感じる。なぜなら、統一教会の信仰実践として重要なものは、礼拝、み言葉の学習、祈祷、伝道、献金、断食、教会内での人間関係(アダム・エバ、アベル・カイン)などが通常の「信仰生活講座」では教えられるからである。どうも櫻井氏は統一教会の信仰生活全体には関心がなく、大衆の注目を浴びそうな実践について、その意味を正確に伝えようとするよりはむしろ不当に捻じ曲げることによって、奇異なものとして描写することを目的としているように感じる。

 櫻井氏は祝福の意義について以下のように述べている。
「教義の核心は『血統転換』である。現実には、神は再臨主として人間の形をとるから、女性は再臨主と肉的にも交わることになる。こうした内容に関して『原理講論』は何も語っていない。韓国からメシヤが現れると述べるだけである。」(p.70)
「文鮮明が初期の信者達と『血統転換』をどのようにやったのかは伝え聞くところでしかない。筆者が見聞したわけではないのでこれについては問わないことにしよう。統一教会が宣教活動を始めた当時、『血分け』の疑惑が持ち上がり、それは未確認のまま終わったのだが、『血統転換』を霊的・象徴的な儀礼と捉えるか、肉的・実体的なものと捉えるのかをめぐって、統一教会と分派組織が意見を違えている」(p.70-71)

 特定宗教の教説について解説する際には、その宗教団体が公式に発表している文献を基本に解説するのが宗教学者としての最低限の礼儀というものであろう。基本的な資料としては光言社から発行されている『40日研修シリーズNo11 祝福の意義と価値』(1990年)を簡単に入手できるし、現役信者や元信者が修練会で受けた「祝福の意義と価値」に関する講義の内容も、ほぼこの本の内容に沿ったものであることは容易に確認できるはずである。そうした資料からは、「女性は再臨主と肉的にも交わる」とか、血統転換を「肉的・実体的なもの」と捉えるというような解釈が出てくる余地はない。

 にもかかわらず、櫻井氏はそれには一切言及せず、伝聞や噂を中心に議論をするので、何も知らない一般の読者は祝福に関して大きな誤解をせざるを得ないような記述になっている。祝福の儀式において統一教会の女性信徒は再臨主の新婦の立場に立つが、これはカトリックの修道女が「キリストの花嫁」と呼ばれるのと同じような霊的・象徴的な意味であり、肉的・実体的な意味はない。櫻井氏の解説は祝福の儀式に対する悪質な冒涜である。彼は「統一教会の最終的救済は『祝福』である」とした上で、次のように述べている。
「このような聖なる結婚は、青年信者にとって性の統制そのものだが、禁欲と解放の落差が大きいほど彼らにとって魅力的なものに映り、その一切を供与し、指導する教会の存在は非常に大きいものとなる。信仰によって家族を形成したのだから、個人として信仰を持つ、あるいは個人として信仰をやめるという選択が極めて困難になる。中高年信者の場合は、既成祝福と称して、現在の夫婦、あるいは死別した配偶者と霊的に再び結婚するわけだが、その誘引は性の解放というよりも、天国に行く、霊界での幸せといった観念的なものである。このような結婚を信者の救済目標と掲げ、さらに信者の家族形成に介入するやり方は、他の諸宗教に例をみない。」(p.71)

 これは統一教会の結婚に対するある種の社会学的な分析ということになるのであろうが、櫻井氏は教団による信徒の統率という観点からしか祝福の行事を理解しておらず、さらにそれを個人の権利の侵害であるかのように主張しているという点において、極めて偏った記述になっている。通常、特定宗教の信仰実践を解説するのであれば、それを行っている信徒たちにとってどのような意味があり、救済の手段としてどのように機能しているのかを客観的に描写すべきであろう。ところが櫻井氏の記述からは、統一教会の信徒たちがなぜ祝福を受けることを願うのかは全く伝わってこない。

 海外には、統一教会における結婚のあり方に関する客観的で公平な社会学的研究が存在する。それは米国の宗教社会学者、ジェームズ・グレイス博士の著作『統一運動における性と結婚』(James H. Grace, Sex and marriage in the Unification Movement, 1985)である。この本の日本語訳は出版されておらず、その内容も日本にはあまり紹介されていないので、拙著『統一教会の検証』(光言社、1999年)の中で概要を紹介している。「祝福」に関する社会学的研究のお手本として、彼の研究を簡潔に紹介しよう。

 グレイス博士が『統一運動における性と結婚』において掲げているテーゼは、「統一運動の性と結婚に対するアプローチは、そのメンバーの献身的な姿勢を維持し、強化するのに非常に有効に機能している」(p.13)というものである。これは統一教会に特異な現象であると言うより、もっと普遍的な意味合いをもっていると同博士はとらえている。グレイス博士は次のように述べている。
「私は宗教、社会、および性の関係を長年研究した結果、宗教がもつ一つの重要な役割が、性と結婚のあり方についての規範を形成し、それらが社会全体の利益に資するように導くことであると確信するに至った。……①その構成メンバーの性と結婚の問題をコントロールすることのできる社会やグループは、そのメンバーの生活全体をコントロールすることができる。②歴史的に見て、宗教はある共同体の構成メンバーの性と結婚をコントロールする上において、最も有効な手段として機能してきた。」(p.8)

 グレイス博士は、著作の結論部分に当たる第8章において、統一教会の結婚に対するアプローチからアメリカ社会が何を学ぶべきかいついて論じている。彼は統一教会における結婚の最も顕著な特徴の一つは、結婚は自分自身のためにするものではなく、世界の救済という、より大きな目的のためにするものであるととらえられている点にあると指摘する(p.116)。したがって統一教会の結婚においては、個々の家庭の目的と共同体全体の目的が分かち難く結び付いており、さらにそれが世界全体の救済というより大きな目的へとつながっているのである。このようなる結婚の形態は、極度に個人主義的になったアメリカ人の結婚に関する価値観に対する一つのアンチ・テーゼとして理解できる、とグレイス博士は論ずる。

 社会学者たちは総じて、性と結婚についての価値観に関する限り、アメリカ人は極度に個人主義的になっていると指摘している。この傾向に対して、グレイス博士は次のように述べている。
「このような奔放な個人主義と、自己の欲求を適えることに過度の焦点を当てることは、私の見解では、結婚そのものに対しても、社会一般に対しても、肯定的な利益をもたらさない。なぜなら、人々が完全に自己の興味に従ってお互いに関わるようになるとき、その関係はしばしば、あらゆる種類のフラストレーション、葛藤、苦しみを伴う強烈な闘争となるからである。結婚の関係が自分のパートナーからより多くの満足を引き出そうという欲望に基づいているとき、その関係は相手が自分の欲求を満たしてくれなくなったときには終わりを迎えざるを得ない。(p.266-7)

 そしてアメリカ社会における婚約破棄、別居、離婚の増加は、この問題が顕著に表れたものであり、統一教会の結婚はこのようなアメリカ社会における結婚の危機に対して、一つの解決の選択肢として考慮すべきものであると述べているのである。グレイス博士はさらに次のように述べている。
「私は個人的に、アメリカ(特にわれわれの宗教組織)は、統一教会の理想と教えから、結婚に関する何か非常に重要なことを学ぶことができると確信している。そしてそれは、もし望むならば、現在われわれが陥っている結婚の窮地から抜け出す道を示すものである。」(p.267)

 グレイス博士の研究内容をさらに詳しく知りたい人は、以下のURLを参照のこと。

http://suotani.com/materials/kensyou/kensyou-5

 最後に、櫻井氏の分析に対する反論として、統一教会の祝福がなぜ現代の日本の若者たちに受け入れらるのかに関して、私の見解を述べよう。統一教会における未婚の男女は、恋愛や性交渉が全面的に禁止された極めて禁欲的な信仰生活を営んでいるが、これは結婚を神聖なものにするための準備期間としての意味をもっている。すなわち統一教会信者の独身時代の目標は、第一に心身を清く保ち、結婚に備えることであり、第二に愛と奉仕の生活を通して人格を磨き、良き夫、妻、親となるための準備をすることである。

 現代の日本の若者たちの中には、社会全般に蔓延する「性の乱れ」に幻滅し、不満や不安を感じている人が多い。そこで性経験の有無は別として、性的な事柄に対して潔癖な価値観を持っている人は、統一教会の教えに魅力を感じるのである。したがって、「清い結婚がしたい」「不倫や離婚などの不安のない、幸福な家庭を築きたい」というニーズを持っている人に対して、「祝福式」という形で示された統一教会の結婚の理想が、一つの魅力的な回答を提示していると言えるのである。

 また、祝福式は「自由恋愛至上主義に対するアンチ・テーゼ」としての意味を持っている。そもそも、デートとプロポーズを経て結婚に至るという方法は、特に20世紀のアメリカで発達し、それが日本に輸入されたものである。しかし、欧米諸国の高い離婚率や、日本における離婚率の上昇などを考慮すれば、それは必ずしも理想的な配偶者選択の仕組みと言うことはできない。一時的な恋愛感情が幸福な結婚を保証しないならば、もっと堅固な土台の上に結婚を築きたいと願う者が現れても何ら不思議ではない。統一教会の信徒たちは、「信仰」という土台の上にそれを築こうとしているのである。

 多くの若者たちが統一教会に入信し、祝福を受けるのは、彼らが持っているニーズと統一教会の提供する「救済」の手段が合致したからであるということを見逃してはならないのである。

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