ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳60


第7章 分析と発見(3)

 感情的献身は、拒絶、すなわち潜在的にグループの団結を破壊する可能性のあるあらゆる関係性の放棄と、親交、すなわちメンバーの感情的愛着と満足をグループ全体に集中させることを伴う。「彼(メンバー)のグループ内における満足の可能性は、その他の関係性に対する選択肢が減少するときに増大する。そして彼には事実上、他に向かうべき場所がないのであるから、彼はグループと和解しなければならない。」(注18)前世紀の成功した共同体は、拒絶が外の世界、カップル、家族の三つの領域で実践されるようなやり方で構造化されていた。統一運動のメンバーは回心の際に彼らと外の世界との基本的な関係(例えば、彼らが生まれ育った家庭や友人たち)を絶つ。さらに、グループはその信者たちに対して、「内側」と「外側」の間の明確に述べられた概念的境界線、独特の言語体系とライフスタイル、必要とされるあらゆる支援の提供、そして最後に、包括的な親族制度を示すことにより、「組織的完全性」(注19)を提供する。さらにまた、統一運動のメンバーになるということは、(例えば、婚前の恋愛関係の禁止、文師による配偶者の選択、宗教共同体に従属するものとしての結婚)などの、性と結婚に関する一連の価値観を必然的に採用することであるが、それらは明らかにグループをアメリカ社会全般と区別するものであり、それを通して統一運動は復帰された統一世界の文化の基礎としての神を中心とする家庭を確立しようとしているのである。アメリカ人が伝統的に自分の夫または妻を選択できることに対して持って来た誇りを考慮すれば、圧倒的大多数の統一教会信者がこの主要な人生の選択を文師に委ねているということは、彼らの拒絶の程度が高いことを証明している。

 統一運動が婚前の恋愛活動を(および同性愛の活動も)禁止していることは、カンターが「カップル」と呼ぶところの拒絶を示している。ユートピア的共同体における排他的な二者の絆は、グループの団結に対して4重の脅威をもたらす。(1)それらはメンバーの忠誠心とエネルギーをグループからそらす、(2)それらは愛情を含めてすべてのものが共有されるべきであるという原則を弱体化させる、(3)激しい個人的な二人の関係は…、潜在的にグループを離脱する可能性がある単位である、(注20)(4)そのような愛着はしばしば共同体に葛藤をもたらす嫉妬や敵意を引き起こす。(注21)非常に単純に言えば、統一運動のメンバーは「カップル」を拒絶して共同体を得るのである。

 最後に、より大きな共同体とは異なる社会単位としての家族の拒絶がある。シェイカーズとオナイダ完全主義者たちは、もちろん、家族という概念そのものを否定したのであるが、その一方で、
「生物学的な核家族を生活の単位として保存したこれらの共同体にとっては、親密さ、感情、そして家族の機能が共同体のあらゆる場所に拡散されることによって、その重要性は低下していたのである。外の世界で家族によって担われていた多くの機能は、購買、消費、子供の養育も含めて、共同体によって代替されていたのである。」(注22)

 神学的には家庭が価値視されているにもかかわらず、統一運動は家族が一緒に過ごすことに優先順位を与えるような構造を提供してこなかった。夫と妻はしばしば異なる「使命」のために別居していたし、その子供たちは運動が提供する保育所に預けられていた。より従来型の生活を送っている少数の家族であっても、住居と財政に関してはグループに大きく依存しており、運動の活動にあまりに深く関わっているため、彼らには夫婦間や家庭内のことにほとんど時間を割けずにいるのである。そのような構造は、家庭をグループの生活と仕事のなかに没頭させることによって、グループの結束を強める働きをしている。したがって、共同体に対する非常に高い感情的献身を祝福家庭の中に発見することは驚くに値しない。

 分離した個人主義的な愛着を放棄したメンバーたちは、グループの集団としての一体性の中に新しいアイデンティティーを見いだす傾向にある。統一運動のように事実上あらゆる活動が共同で行われるようなグループにおいてはなおさらである。「自己とグループが混ざり合うこと」は運動における生活の顕著な特徴であり、それはメンバーの間に強力な「われわれ感情」を引き起こす現象である。この深い親交の感覚がさまざまな構造によって育まれ、その多くは統一運動の性と結婚に対するアプローチを反映しているのである。全メンバーが兄弟姉妹であり真の父母の子女であるという仮想の親族ネットワークは、婚前の男女交際を阻止するだけでなく、グループの一体性を促進する。聖酒式を通してマッチングされたカップルは文師夫妻と「血縁関係」に入り、お互いに対してもそうなる。夫と妻の間の特別な関係は彼らによって疑いなく高く評価されているが、さまざまな別居期間が、カップルをグループから後ずさりさせ、あるいはグループを去る方向にさえ導きかねないような二人の絆を低減させるのである。

 この研究のためにインタビューを受けた統一教会の信者たちは、彼らと相対者の間にある多くの個人的・文化的な違いを、いかに彼らの信仰によって乗り越えることができたかを強調した。そのような違いは疑いなく存在するが、これらの男女は共通の関心を彼らの結婚に持ち込んだと信じるに足る理由がある。グループに入る以前から、おそらく彼らはアメリカ社会からの共通の疎外感、理想主義的な結婚観、そして世界を変えたいという思いを抱いていた。また、統一運動の包み込むようなサブカルチャーのなかで世界の救済者としての3年間をすごした後、彼らは結婚するにあたって、彼ら自身が意識的に自覚している以上に多くの共通点を疑いなく有するほどまでに、運動の価値観を内面化していたのである。そのような均一性は、カンターが調査したグループ内の親近感を増大させるものであることが発見されている。

 祝福に伴う儀式(マッチングと聖酒式、「公的な」祝福式、および三日行事)はすべて統一運動内部における親交を促進する機能を果たしている。カンターが正しくも述べたように、「儀式はグループに対する忠誠心が高揚され、祝賀され、教化される象徴を提供する。ここで、宗教は直近の社会集団の崇拝であるというデュルケムの古典的命題がさらに強化された。」(注23)

(注18)前掲書、p. 83。
(注19)前掲書、P. 88。
(注20)前掲書、p. 86。
(注21)前掲書、pp. 86-87。
(注22)前掲書、pp. 90-91。
(注23)カンター『献身と千年王国運動の内的組織』、p. 233。

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