書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』07


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第七回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第1章 統一教会研究の方法」のつづき
 櫻井氏は本章の中で、アメリカの宗教社会学者の多くが新宗教やカルトに対して好意的であり、「既成宗教から異端の攻撃を受ける宗教的マイノリティに対して、信教の自由、宗教的寛容の精神をもって擁護することを研究の使命としているようにも見受けられる。これらの新宗教やカルトの信者が洗脳、マインド・コントロールを受けているという信者の家族や、教団に批判的な宗教者、心理学者達の社会的アピールに対して、積極的に反対活動を行う学者もいる」(p.15)と、そのことをやや批判的に取り上げている。

 しかし、アメリカにおけるこうした学問的な動きは、「現象学的考察」とか「当事者性」などと呼ばれる現代的な思潮の中から生まれてきたものであり、一般大衆から理解されず偏見をもって見られているものに学問的な光を当てるという意味で、大きな進歩であったと評価できる。こうした動きがなければ、女性、黒人、障碍者などの社会的弱者やマイノリティが直面している問題を明らかにして、差別や偏見を取り除こうという姿勢は生まれてこなかったであろう。アメリカの宗教社会学は、そうした手法を「カルト」などと呼ばれて差別されている新宗教運動に当てはめたものであり、そのこと自体に社会的意義があるということを見逃してはならない。それは必然的に、新宗教に対して批判的な人々との戦いを引き起こしたが、女性解放運動も、公民権運動も、政治的闘争なくしては基本的な権利を勝ち取ることは不可能であった。ある意味で戦いは必然なのである。

 しかし櫻井氏は、「<新宗教・カルト>批判ー反<カルト>運動批判といった政治的構図の中でカルト論争を続けることに宗教社会学者の大半は飽き飽きしている」(p.15)とした上で、最近の学会の傾向として以下のような認識を紹介している。

(1)「カルト」一般について回心の理論を議論するよりも、特定宗教の宣教戦略や活動内容に即して布教・教化方法を検討する方が実りがある。

(2)眼前の若者や家族が社会的に問題ある教団に巻き込まれている状況において、「信教の自由」「異質性への寛容」といった抽象的な規範論を述べても全く問題の解決にならない。9・11を経験したアメリカや地下鉄・バスの爆破テロを経験したイギリスでは、宗教的寛容や宗教的多元主義だけでは現代の宗教的過激主義に的確な対応ができないことに気づき始めている。

(3)カルトは宗教的マイノリティに対して差別的な概念であるか否か、カルトの信者はマインド・コントロールされたのか、自発的に信仰を選び取ったのかといった二者択一の議論は、学問的水準としては時代遅れだ。いずれにせよ、「自由意思の有無」や「絶対に逆らえない心理操作」を実証することは不可能であり、なおかつ、どちらも程度問題にすぎないのだから、これらを抽象的な理論レベルにおいて討議するよりも、個別教団ごとの事例に即して実態はどうだったのかを明らかにする方が有益である。(p.15-16)

 おそらく櫻井氏は、自分の研究はこうした西洋の学会の最新のトレンドに沿ったものであるとでも言いたいのであろう。しかし、実際にこうした議論が西洋の学会でなされたことがあったとしても、それらはバーカー博士のように新宗教に対する社会学的研究を行ってきた学者たちの言わんとしていることを十分に理解していない可能性が高いし、問題の混同やすり替えをしているように思われる。一つひとつ検証してみよう。

 まず(1)に関してだが、そもそも「カルト」一般について回心の理論を議論しているような宗教社会学者がいるのかどうか、はなはだ疑問である。新宗教への回心のパターンをモデル化しようとした社会学者がいたことは事実であろう。しかし、そもそも社会学的調査とは具体的に存在する個々の教団に関して行うものである。そこで得られた知見はあくまでその教団に関してのみ言えることであり、「カルト」などという定義の困難な曖昧な概念で多くの教団を一括りにして、一教団で得られた知見を他の教団にまで拡大して適用するような学者がいるとは到底信じられない。アイリーン・バーカー博士は統一教会への回心に焦点を合わせて調査研究を行ったが、それがあくまで(彼女が調査した西洋の)統一教会にのみ当てはまることであることは十分に認識している。以下の引用からもわかるように、個々の新宗教運動には大きな違いがあることは研究者の常識である。

「新宗教運動についての知識がある人なら誰もが完璧に良く知っていることだが、個々の運動の間には非常に明確な違いがあるのだ。ムーニーになるようなタイプの人は、ディバイン・ライト・ミッションの信者や、メア・ババの信奉者や、estの卒業者や、神の子供たちでかつて『浮気な釣り』をしていら者たちと同じタイプの人間ではないし、また同じような経験をしていたとは思われない。」(第5章「選択か洗脳か?」より)

 むしろ、多様な新宗教運動を十把一絡げにして、「カルト」や「マインド・コントロール」といったレッテルを貼っているのは「反カルト」派のほうであった。マーガレット・シンガーにはそうした傾向があったので、個々の教団ごとに事実を確かめない限り正確なことは言えないという立場でバーカー博士が反論したのが『ムーニーの成り立ち』であった。そもそも、まっとうな宗教社会学者は「カルト」などというレッテルで新宗教運動を一括りにすることはないし、その回心過程がまったく同じであるとも考えていない。したがって、櫻井氏の言う最近の学会の傾向は、それまでまっとうな宗教社会学者たちが行ってきた研究と本質的に変わりがないのである。むしろ「飽き飽き」されているのは、こうした事実を突きつけられても自分たちの考えを変えない「反カルト」派の方であろう。

 次に、(2)は櫻井氏の危険思想を表している。まず、彼は「信教の自由」「異質性への寛容」を「抽象的な規範論」と言って切り捨てているが、既にこのブログの第4回で述べたように、信教の自由は抽象論ではなく、過去において信仰の故に特定の人々を差別・迫害・殺害してきた悲惨な歴史を教訓として確立された「血の代価」であり、人類の獲得した貴重な権利である。9・11にしても、ロンドンの地下鉄・バスの爆破テロにしても、憎むべきは暴力行為であってイスラム教という宗教そのものではない。むしろ、一部の過激な行為が原因となって、罪なきイスラム教徒にまで憎悪や差別が及ぶことの方が問題である。そもそも暴力を伴う宗教的過激主義と、新宗教や外来宗教と主流の文化との間に起こる文化的摩擦はまったく別の問題である。暴力やテロは警察によって取り締まられ、刑法によって裁かれるべきである。しかし、「社会的に問題ある教団」という概念は極めて曖昧であり、違法か合法か判別できないが、レッテル張りによる差別を招く可能性がある。こうした偏見から守るためにも「信教の自由」とか「異質性への寛容」といった概念があるのだ。(2)で櫻井氏が述べていることは、文化的摩擦に基づく憎悪を肯定しているだけで、なんら前向きな解決策を提示していないし、それによって「信教の自由」や「異質性への寛容」が否定されたり制限されたりすることの危険性にも気付いていない。

 最後に、(3)もマインド・コントロール論争の本質を全く理解していないと言わざるを得ない。バーカー博士は社会学者であるため、「人に自由意思はあるか?」「あらゆる人間の行動はあらかじめ決定されているか?」といったような哲学的で抽象的な論争には関心がなく、もう少し「測定可能」な事柄を探究しようとしている。『ムーニーの成り立ち』から引用すれば、以下のようになる。

「自由意思を『救いの神』――すなわち何らかのかたちで取り去られるまで、神秘な力で人々に独立した決断をさせるもの――として持ち出しても、それは役に立たないであろう。また『究極的に』全てのことは(精神的あるいは肉体的な)原因によって決定されているという立場に反対する議論に入っていくのも役に立たない。私がやりたいのは、自由意思と決定論の論点を避けて、より有益な二分法であると私が信じる、選択と強制を採用し、それほど野心的ではないがより実用的な区別を試みることである。」(第5章「選択か洗脳か?」より)

 したがって、「自由意思の有無」や「絶対に逆らえない心理操作」を二者択一としてとらえ、そのどちらかを論証しようとしている者は、少なくともまともな学者の中にはおらず、むしろ個別教団ごとの事例に即して実態はどうだったのかを明らかにしたのが『ムーニーの成り立ち』だったのである。現実はこの二つの両極のどちらか一方ではなく、「程度問題」というのも、バーカー博士の見解と一致している。『ムーニーの成り立ち』から引用すれば、以下のようになる。

「それでは私の結論は何であろうか? 私は研究の結果、人々が抗し難い洗脳テクニックの結果として統一教会に入会すると信じるようになったであろうか? それとも理性的で計算された選択の結果であると信じるようになったであろうか? これまでこの本を読んできた人々にとっては誰の目にも明らかであると思うが、そのような質問に対する短い回答は、どちらの答えも満足のいくものではない。しかしその答えは、抗し難い洗脳という一方の極よりも、理性による選択というもう一方の極にかなり近いところにある、ということを証拠は示していると思われる。」(第10章「結論」より)

 以上の分析により、櫻井氏の紹介する西洋の宗教社会学者の最近の傾向は取り立てて新しいものではなく、まともな社会学者が昔から主張してきたことと変わりがないことが分かる。

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