書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』86


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第86回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、実践トレーニングでの伝道実践の分析の一環として、「14 信仰強化のメカニズム」(p.256-259)について論じている。櫻井氏の主張は、統一教会は「認知的不協和の意図的・効果的な利用」(p.258)によって受講生の心理操作や人格の変革を行おうとしている、というものだ。しかし、トレーニングの受講生たちが街頭伝道で味わう屈辱感にどう対処するかについての指導は、「迫害」に対する宗教の伝統的なとらえ方の延長線上にあり、聖書の伝統に基づくものであることを前回は説明した。今回はそれを前提としながら、より細かい記述に関して検証することにする。

 櫻井氏は札幌「青春を返せ」裁判に原告側の資料として提出された「伝道勝利十則」と呼ばれる文書に出てくる以下のような文章を引用しながら、そこに統一教会の世界観と理想とされる信者像が示されていると主張する。
「街頭ではゲストのメッタ打ちに耐えよ。この精神的な打撃を神と共に耐えられるか、耐えられないかが、勝利への道か、敗北への道かの重大な岐路である。そして、常に新規伝道を忘れるな。新規伝道を怠る成約聖徒の行き先は、敗北と転落と侮辱と堕落しかない」(p.256)
「伝道師こそ神とサタンの戦いの最前線の戦闘部隊である。血と汗と涙の決死的なすさまじい行動こそが勝利の道である。小手先の小理屈など、いっさいいらない」(p.258)

 こうした文言は統一教会そのものというよりは、現場の信者たちが自己の経験に基づいて作文したものであると思われるが、「神」や「サタン」などの宗教用語を除いてしまえば、保険のセールスを行う営業マンを奮い立たせるためのスローガンや、体育会系のサークルで闘争心を掻き立てるために用いられる「はっぱ」に類似していると言えるだろう。これから活動しようというときに、「気合い」を入れるためにそのような言葉遣いをすることは一般社会にも見られ、とりたてて異常なものではない。

 確かにそこで語られる言葉は激しいものであり、決死的な思いにさせるものではあるが、それは一時的に思いを奮い立たせるために用いられるものであり、四六時中そのような精神状態でいるわけではないことは常識である。統一教会の信徒たちの活動においても、しばらく集中して活動した後は、お互いの労をねぎらうような和気藹々とした雰囲気になったり、兄弟姉妹の交流を笑いながら楽しむような場面も展開するのである。それは信仰生活における、いい意味での「緩急」を作り出している。そもそも、四六時中このような緊張状態を強いられたのでは人の精神状態は耐えられず、逆に能率は下がるであろう。櫻井氏は参与観察によって実際に伝道している様子や信徒たちの生活を見たわけではないので、こうした裁判資料に頼ってそこから想像を膨らませていくしかない。しかし、それは極めて限定的な性格を持つ文書から全体を推し量ろうとする行為であるため、実像とはかけ離れた想像の産物となってしまっているのである。

 極端な表現の文書だけに頼って統一教会信者の心理状態を分析し、櫻井氏は実践トレーニングの受講生たちを「二つのグループに分かれることになる。どんなに辛くともこの道を全うしようと決意し直すものと、敗北感・喪失感を持って教会から脱落するものである」(p.257)という二者択一で描こうとする。しかし、この選択肢には重要な要素が抜け落ちている。それは「喜んでこの道を行こうとするもの」という選択肢である。そもそも、伝道されて4ヶ月から半年程度の、信仰的な面ではまだ幼いと言える実践トレーニングの受講生たちが、ただ辛くて苦しいだけの生活に耐えて信仰を持つようになるというのは非現実的である。この時期はまだ先輩信者である実践トレーニングのスタッフから愛され、面倒をみられる段階であり、実践の訓練を受けると同時に、手厚いケアも受けるからこそ成長していくのである。また、一緒にトレーニングを受けている兄弟姉妹との情の絆や仲間意識による喜びも、この時期の信仰形成の大きな要因となる。要するに「喜び」や「感動」の要素なくして信仰が育ったり強化されたりすることはあり得ないのである。そうした部分が櫻井氏の記述にはすっぽり抜け落ちている。

 こうした短期間の訓練は、内向的で悲観的な性格の人には辛く苦しいものであるかも知れないが、積極的で楽観的な性格の人にとっては、チャレンジ精神をくすぐるエキサイティングなものとして感じられることもある。それはスポーツにおいて勝利するために限界に挑戦していく感覚に似ている。挑戦している最中は肉体的には苦しいが、大きな目標のために自分を投入していくことに喜びを感じるからこそ、人はそれを乗り越えて頑張るのである。そして目標を達成したときの喜びは、それまでに体験した辛さや苦しさに比例して大きくなる。人は自分が取り組んでいることに大きな意義を感じることによって、苦しみを喜びに変える存在なのである。統一教会の信徒たちは、「自分が世界を救うために役に立つことができる」ということに意義を感じて、辛さや苦しみを乗り越えていく。そして何かを達成したときの喜びは、やはりその過程にある苦労の量に比例して大きくなる。まだまだ小さな次元であるとはいえ、そうした体験をすることが実践トレーニングにおける「信仰強化のメカニズム」の本質であると言ってよい。信仰は屈辱や否定の体験だけでなく、成功体験による喜びと感動によって成長していくものだが、櫻井氏の記述にはそれがまったくないのである。

 櫻井氏は「統一教会にとってこの伝道方法は信仰育成と同時に信者のスクリーニングをも兼ねている。どの道お荷物になる信者はいらない。」(p.257)と述べているが、これはとんでもない誤解である。統一教会の信仰は「万民救済」なので、役に立たない人を振るい落としてしまおうなどという発想は基本的に存在しない。伝道する側や指導する側が弱いものは脱落していくことを前提として受講生に接することはなく、できれば全員を導きたいのだが、本人の自由意思を否定することはできないので、結果的に脱落者が出るというだけのことである。現実には、実践トレーニングを終了した段階で、原理に対する確信や活動に対する積極的な姿勢が見られない受講生に対しては、一般社会で働きながら教会に通う「勤労青年」として信仰を継続する道を選ぶようにアドバイスするなど、その人の個性に応じて人間的な配慮がなされるのである。

 桜井氏は実践トレーニングにおける伝道実践を、「伝道実践こそが信仰を作っているのであって、信仰ができたから伝道しているのではない」(p.258)と批判する。しかし、信仰が先か実践が先かという話は、いわば鶏と卵の関係であって、どちらが先かというよりも相互に補強し合う関係であると言えるだろう。座学で統一原理を学んだからと知って、深い理解や強い信仰が得られるわけではない。宗教的真理というものは、頭で学ぶ抽象的な知識ではなく、実践することによってはじめてその意味が分かる体験的な知識であるわけだから、「伝道実践こそが信仰を作っている」という状態は悪くもなんともなく、むしろ「信仰とはそもそもそうしたものだ!」と多くの宗教者が反論することだろう。もちろん、意義と価値もわからずにやみくもに実践すればよいというものではない。一通り教義を学んだ後に、それを実践してみて、そこで体験したことや感じたことを教義で解釈することによって信仰を血肉化していくというのは、宗教的教育の王道と言えるだろう。実践トレーニングは受講生にとって、まさにそのような場なのである。

 櫻井氏は実践トレーニングのやり方を、「統一教会独自の方法というよりも、教勢を急速に拡大する新宗教が採用する典型的なやり方である」(p.258)と、つい筆を滑らせてしまい、自家撞着に陥っている。そもそも彼が第六章の三で訴えたかったのは、「統一教会特有の勧誘・教化」ということであって、他に類例のない特異な勧誘と教化の方法でなければならなかったのに、ここにきてその手法は急成長する新宗教においては「典型的」といえるほど、ありきたりな手法であることを明らかにしてしまったのである。

 桜井氏はこうした伝道のあり方を、「どんなに拒否されてもめげないというだけではセールスマンとどこが違うのか」とか、「常に実績を追求され、実績において評価されるという点でも普通の会社と変わらない組織となる」(p.258)などといったことを根拠として、「簡単にいえば、信仰が自己の心の問題として育っていかないということだろう」と批判している。いったい彼は何を根拠としてこのような大雑把な総括をしているのであろうか? 特定宗教の信仰実践が、信徒たちの内面にどのような影響を与えているかという問題は、実際に信仰している人々に対する広範な聞き取り調査を行うことによってはじめて明らかになることである。しかし彼はそうした調査は一切行わず、既に脱会して後悔の念をもって信仰生活を振り返っている人々の手記を主たる資料として、そこから得られた知見を一般化しているのである。そうした人々は、①信仰が自己の心の問題として育っていなかったからこそ脱会したのであり、②教会を離れた自分を正当化するために過去の体験をネガティブに描写する必要がある、という二重の意味において偏ったデータの提供者である可能性が極めて高いのであり、統一教会信者全般において信仰が心の問題として育っているかどうかを論ずるうえで信頼できるデータとは言えないのである。

 こうしたすべての問題は、櫻井氏が現役信者を対象とした調査を行わず、「青春を返せ」裁判で教会を訴えた元信者たちの証言を主たる資料として研究を行っていることに起因している。繰り返しになるが、これこそが彼の研究の致命的な欠陥である。

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