韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ16


 先回は、1921年にロシアの赤軍と朝鮮の独立軍が衝突して、朝鮮の独立軍が壊滅するという悲劇的な事件、すなわち「自由市事件」の経緯について説明しました。これによって抗日武装勢力は日本と戦う前に内紛によって大打撃を受け、バラバラになってしまいました。独立運動に共産主義者が加入したことによって、運動の戦線は却って四分五裂してしまったわけですが、「自由市事件」の生き残りは再び満州に移動して、活動を再開することになります。今回は「自由市事件」以降の武装闘争について説明します。

 「自由市事件」以降の武装闘争は大きく三つの流れに分かれます。「新民府」という独立団体は、自由市の難を逃れて帰満した金佐鎮らが北満州で大同団結を提唱して結成したものです。「参議府」という団体は、上海臨政の承認の下に、白時観らが創設したものです。また「正義府」という団体もあり、これは高麗革命党の党軍であり、共産主義の団体です。このように分かれて、それぞれ活動していたわけです。

 これに対して日本側は、「三矢(みつや)協約」によって掃討しようとします。1925年6月11日、朝鮮総督府警務局長であった三矢宮松と張作霖の間に、「在満韓国人取締り協約」(三矢協約)が結ばれました。その目的は、独立武装闘争の再燃を防ぐためであり、中国官憲が韓人独立運動家を逮捕して日本領事館に引き渡せば、賞金を支払うという協約でした。これは実はかなり有効でありまして、お金欲しさに韓国人の独立運動家を売る中国人が現れるようになりました。これにより独立運動は打撃を受けるようになっていきます。独立運動を取り巻く環境はかなり厳しかったと言えます。しかし、このころはまだ満州にいれば独立運動をすることができたんですが、やがてさらにひどい状況になります。それが満州事変です。

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 すなわち、韓国国内では独立運動ができないので、「東辺道」と呼ばれる満州の一部に拠点を作って軍を組織していたわけですが、今度は日本がその満州を取ってしまったのです。1931年9月18日に満州事変が勃発し、1932年3月1日に日本は満州国の建国を宣言しました。日本が満州国を建ててそこを治めるようになれば、満州に拠点を構えていた独立運動はその基盤を失ってしまうのですが、まだ満州を取ったばかりの頃は、満州の中国人も日本に対して反感を持っているわけです。それで反満抗日連合軍が燎原の火のように燃え広がって、韓国独立団体はこれら不満を持っている中国人と連合して戦うことにしたのです。

 しかし、1932年には36万人いると見積もられていた反満抗日部隊は、日満軍警察の絶え間ない粛清作戦によって討ち減らされ、民族派の団体は比較的早期に壊滅し、代わって中国共産党に加入した朝鮮人パルチザンが登場するようになります。そのうちの一つが金日成部隊でありました。北満の韓国独立軍は1933年ごろ、南満の朝鮮革命軍は1938年の秋ごろに闘争を継続できなくなり、日韓併合後28年間続けられた民族主義者の武装闘争は終わりを告げることになりました。残ったのは何かと言えば、共産主義の運動だったわけです。

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 この当たりで「キム・イルソン」が登場するわけでありますが、実は「キム・イルソン」を巡っては分からないことがたくさんあります。これが「キム・イルソン将軍」の伝説ということなんですが、韓国の成均館大学の教授で李命英博士という人が書いて有名になった著作に「金日成は四人いた」という本があります。これは、金日成であるとされている人物は数えると全部で四人いて、その人たちの功績を全部自分のものだと言って奪って、北朝鮮の主席になったのが後の「金日成」だということで、要するに本物の金日成は別人だったという話なんです。

 一番最初の「キム・イルソン将軍」の伝説は、かなり早い時代に存在していました。三・一運動が挫折する頃でありますから、1919年から20年ごろに、武装独立運動のシンボル的な存在として、「キム・イルソン将軍」の名が韓国人の間に広く深く伝承され始めました。イメージとしては、「白馬にまたがり、神出鬼没して日本軍を悩ましている名将が東満やシベリアで戦い続けている」という噂が、口伝えであったわけです。それでは後の北朝鮮の主席になった金日成がこのころ何歳だったかと言えば、まだ8歳~9歳くらいの子供だったわけです。ですから彼がこの伝説の「キム・イルソン将軍」であるということは、年齢からしてあり得ないわけですが、その伝説もすべて自分のものにしてしまったわけです。

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 では、この伝説の「キム・イルソン将軍」の正体は誰だったのでしょうか? さきほど説明した「新興武官学校」の教官の一人に、金光瑞(김광서)という人がいました。この人は1909年に東京に留学し、陸軍士官学校第23期生となりました。そして1911年5月に士官学校を卒業し、同年に任官します。ですから、一度は日本軍の軍人になるのです。ところが1919年にソウルに帰り、三・一独立運動を目前にした彼は、抗日独立運動への参加を決意し、国境を越え満州へ向かいました。そして、南満州の新興武官学校の教官となるのです。このときに、金擎天(김경천)という名前に改名しています。それが後に金日成(김일성)という名前に改名したわけです。写真が残っていまして、この人ですが、北朝鮮の金日成主席とは年齢も顔も全く違います。この人が「初代キム・イルソン」と言いますか、もともとの伝説の「キム・イルソン将軍」ではないかと言われています。

 まもなく金擎天は独立運動の舞台をシベリアに移しました。白馬に乗って独立闘争をしていたこと、「金将軍」と呼ばれていたことなどから、彼こそは金日成将軍伝説のモデルだったのではないか、とされています。もしこの金光瑞が1945年の解放の年まで生存していれば、そのとき57歳になっていたはずでした。しかし金光瑞は1942年に亡くなっています。

 日本の敗戦後、朝鮮半島の北部がソ連によって支配され、1945年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成が初めて朝鮮民衆の前にその姿を現したとき、多くの者が「若すぎる」と言って、彼が偽物であることを疑った、という話が残っています。当時の金日成は、まだ33歳だったのです。

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 これがそのときの写真でありますが、ソ連の高官が後ろにいて、「彼こそが伝説の金日成将軍である」と紹介されました。人々は「伝説の金日成将軍」を初老の男性であると想像していたのですが、ソ連の高官たちに紹介された金日成は33歳の青年であったので、「彼は偽者ではないか」という噂は当時からあったわけです。

 ここで疑問となるのは、どうしてわずか33歳の青年が一国の指導者になりえたのかということです。ほかに独立運動で活躍した共産主義者はいなかったのでしょうか? 実はいたのです。その代表的な3名を次回から紹介しますが、どうして彼らが北朝鮮の指導者になれなかったのかということも、あわせて説明します。

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