書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』84


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第84回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、実践トレーニングにおける伝道実習の分析の一環として、「14 信仰強化のメカニズム」(p.256-259)について論じている。櫻井氏は初めに「見知らぬ人に声をかけるだけではなく、人を勧誘するということには勇気がいる。統一教会に勧誘され、実践トレーニングまで残った人達の多くは、繊細で押し出しの弱い人が多い。」(p.256)と述べているが、これは実証的データに基づかない情緒的な印象論に過ぎない。

 櫻井氏の言う「繊細で押し出しの弱い人」というのは、アイリーン・バーカー博士が『ムーニーの成り立ち』の中で論じている「被暗示性(Suggestibility)」の強い人と意味が重なる。「被暗示性」とは「他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向」のことである。「統一教会に入るような人は基本的に説得に弱くて、勧められるとNOとは言えないタイプの人だから巻き込まれてしまったのだろう」とか、「カルトに巻き込まれるような人は、素直なお人好しタイプが多い」とか、「精神的な弱さや隙があったから統一教会につけこまれたのだ」という推論に基づき、第三者が統一教会信者に対してこうしたイメージを持つことは多いようだ。しかし、本当にそうかどうかは、科学的な検証によって証明しない限りは分からないのであり、憶測に過ぎない。

 そこでバーカー博士は、対照群との体系的な比較によって統一教会員の「被暗示性」が強いかどうかを客観的に測定するために、統一教会に入会したかどうかとは別の「独立した」指標で、「受動的な被暗示性」を定義した。それは具体的には、「青年期の未熟さ、精神障害、薬物乱用、あるいはアルコール依存症などの経歴、学校における成績や素行の不良、両親の離婚や不幸な子供時代、友人関係を維持する能力の欠如、過渡的な状況にあるか人生の明確なビジョンや方向性を持っていないこと、優柔不断の傾向、職業やガールフレンド(ボーイフレンド)を次から次へと変える傾向」などとなっている。

 バーカー博士は分析の結果として、ムーニーになる人にこうした傾向があるとは言えないと結論している。具体的には、①ムーニーは貧困または明らかに不幸な背景を持っているという傾向にはない、②もともと精神的な問題や薬物使用などの問題を抱えていたというムーニーは少数派である、③ムーニーが基礎的な知識に欠けるがゆえに説得を受け入れやすいのだという証拠はない、ということを明らかにしている。これらはすべて対照群との比較によって裏付けられている。面白いことに、これは櫻井氏自身の統一教会員の描写である「受講生は育ちもよく、学業、仕事も人並み以上にこなしてきた模範的な学生、市民だった」(p.257)という像と一致している。要するに統一教会に来るような人は、能力や精神的な強さ・成熟度において「平均以上」のレベルを持った人が多いということだ。少なくとも、相手の言うことを何でも受け入れてしまうような意志の弱い人ではない。こうした特性を持った人が、「繊細で押し出しが弱い」ために統一教会の説得に抵抗できずに実践トレーニングまで残ってしまったという櫻井氏の描写は論理的に矛盾している。

 説得に弱いタイプの人が統一教会に入るわけではないとすれば、最終的に信者になるかならないかを決定する要因は何なのであろうか? バーカー博士はそれを「感受性」と呼んでいる。「感受性」と「被暗示性」との違いを簡単に説明すれば、「被暗示性」が基本的に他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向のことであり、何でも受け入れてしまうような受動的で説得に弱い性格であるのに対して、「感受性」は統一教会が提供するものに対して積極的に反応するような性質のことであり、その個人がもともと持っているセンサーのような性質だということになる。こうしたセンサーやアンテナが発達している人は統一教会の教えや修練会に積極的に反応するけれども、発達していない人は反応しないので入教しないということになる。

 それでは、そのような性質の具体的な中身が何なのかと言えば、バーカー博士によると、ムーニーになりそうな人は以下のような特徴を持っているという:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。

 こうした特性をもともと持っていた人々が、修練会で教えられた統一原理の内容に反応してムーニーになったということである。バーカー博士の研究において「ムーニーになった」と判断された人とは、2日間、7日間、21日間の修練会に参加して統一教会への入会に同意し、少なくとも一週間以上の信仰生活を送った人のことであり、それ以前に離脱した人は含まれていない。欧米と日本では教育プロセスが異なるが、日本の実践トレーニングでは既に統一原理の受講はすべて終わっており、教会や創設者についての情報もすべて学び、入会を決意して実践段階にまで入っていることから、バーカー博士の「ムーニーになった」という基準を満たしていると言えるだろう。したがって、実践トレーニングまで残った人も、これと類似する性質をもともと本人が持っていたために、統一原理の教えに共鳴したのであると理解することができる。

 要するに、実践トレーニングまで残ったのは本人が説得に弱かったからではなく、むしろ統一原理の内容に主体的な関心を抱き、自らの生き方として採用しようという決意をしたからであるということになる。能力や精神的な強さ・成熟度において「平均以上」のレベルを持った人は世の中に山ほどいるが、そのすべてが原理を聞いて信仰を持つわけではない。それでは、最終的に信者になるか否かを決定する要因は何であるかと言うと、第一にその人に宗教性があるかないかによって峻別されるのあり、第二に統一原理が教える世界観そのものに共鳴できるかどうかによって決まるのである。しかし、櫻井氏は初めから受講生たちは「受動的な説得の被害者」であるという像を描いているために、何の実証的なデータも示さずに「繊細で押し出しの弱い人」というような印象論を書いてしまう。こうした誤解の根本的な原因は、「自分たちは統一教会の被害者である」と訴えている「青春を返せ」裁判の原告たちの主張を基礎資料として研究をしていることにある。

 櫻井氏や「青春を返せ」裁判の原告たちが描こうとする像とは異なり、実践トレーニングの受講生には「繊細で押し出しの弱い人」ばかりではなく、多種多様な性格の人々が混在している。明るくて社交的な女性もいるし、体育会系のノリでやたらと元気の良い男性もいる。たまに元ヤンキーや不良だったという人もいるし、真面目な公務員もいるし、学校の先生や看護師など、特定の職業のプロとしてキャリアを積んでいる人もいる。その中には明らかにリーダーとしての資質を持った人もいるのである。そうした人はやがて統一運動の中でリーダーとして頭角を現していくことになる。こうした人々は、「統一教会の説得に抵抗できなかった、繊細で押し出しの弱い受動的な被害者」とはまったく正反対の性格を持つ、主体的な活動家となる。彼らは統一運動の中に自分の居場所と存在意義を感じ、人に説得されたからではなく、自らの主体的意思で信仰生活を送るようになり、同時に後輩たちの指導に当たるようになる。

 こうした多様な性格を持った若者たちが実践トレーニングで伝道活動を初めて体験するわけだが、それが勇気のいることであり、不安や葛藤を伴うものであることは事実であろう。しかし、櫻井氏はこうした実践活動を「信仰強化のメカニズム」として、何やら意図的にその人の人格を変えるために行われているのであると主張している。それは以下のような文章に如実に表れている。
「信仰の告白という意味もあるが、羞恥心、世間体を捨てさせることの効果も大きい。何だろうと奇異の視線で見られたり、無視されたりすることで、通行人とは違う種類の人間にならざるをえないのである。」(p.256)
「受講生にとって無視され、その上バカじゃないか、迷惑だと非難され、さらには変な団体につかまった可哀想な人達と蔑みや哀れみの視線を投げかけられることは、屈辱というよりも自分の全人格やこれまでの人生を否定されたに等しいショックだろう。」(p.257)
「社会心理学的解釈を施すなら、統一教会における信仰強化は認知的不協和の意図的・効果的な利用とされよう。つまり、自尊心を剥ぎ取るような状況に受講生を追い込むことで、彼らの自己認知や世界観を大いに揺さぶる」(p.258)

 次回は、伝道実践の中で受講生たちが感じることや教えられることが、意図的な心理操作や人格の変革を目的とするものではなく、伝道的な宗教の世界観を背景としていることを明らかにする。

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