書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』70


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第70回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ビデオセンターの次の段階としての「4 ツーデーズセミナー」(p.229-33)について説明している。前回までは班長による研修生の管理、無駄話の禁止、外部情報からの遮断、食事、講師の紹介、睡眠といったセミナーの外的な構成要素をアイリーン・バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」の記述と比較しながら批判的に分析してきたが、今回は私自身の講師体験をもとにして彼の記述が間違っていることを主張したいと思う。

 櫻井氏は「青春を返せ」裁判の原告の主張に則って、ツーデーズ・セミナーが受講者に寝不足や疲労感をもたらすことによって正常な判断力を減退させ、合理的な判断ができない状態に追い込んで次のステップである「ライフトレーニング」への参加を決意させるものであると主張している。しかし、これは私の講師体験からすれば誤った認識であり、少なくとも著しく偏った主張であると言わざるを得ない。既に述べたように、私は1987~88年にかけて原理研究会の運営するビデオセンターに通ってくる学生に対する講義、原理研究会主催の2日間の修練会の講師、7日間、21日間の修練会の進行係などを担当していた。また、1990年の1月から翌年6月まで、東京の武蔵野市と三鷹市を中心とする、当時「東京第7地区」と呼ばれていた信徒の組織において、教育部の講師、教育部長、ビデオセンターの所長兼講師などを担当した経験がある。原理研究会における2日修は、札幌「青春を返せ」裁判の原告たちが体験したツーデーズ・セミナーとほぼ同じようなスケジュールである。一方で、「東京第7地区」で壮年壮婦を対象として私が行ったツーデーズ・セミナーは、それよりもはるかに緩やかで時間の短いものであった。この二つの体験から、修練会の環境と回心の関係、そして人が伝道されるということの本質について私の考えを述べることにする。

 私が「東京第7地区」で行っていたツーデーズ・セミナーは、自身の運営するビデオセンターに通っているゲストの中から学習の進展度が同じくらいの人を2~4人選んで、ビデオセンターのスタッフが日程を決定して行っていた。既婚の婦人の場合はウイークデーに時間がある場合が多いので、1カ月に1・2回ほどツーデーズの日程を決めておき、堕落論までビデオ学習が進んだ人を対象に、セミナーに参加するよう勧めるのである。ビデオセンターの所長である私が、感想文やカウンセラーの報告などをもとにして、理解が良いと思われる人にツーデーズ・セミナーに勧めるよう、カウンセラーに指示を出した。参加が決定したら紹介者に連絡を入れた。紹介者はゲストがツーデーズに参加すると非常に喜んで、当日プレゼントなどを持ってビデオセンターを訪れることがよくあった。

 壮婦の場合には家庭があるので、ツーデーズ・セミナーは合宿ではなく通いで行われた。一日の講義時間は午前中2時間と午後2時間の2コマで4時間、全体の講義時間は2日間で合わせて8時間ほどである。幼い子供がいる場合は、保育室に子供を預けて講義に参加することになる。これまでビデオを通して聞いてきた内容を同じ建物の中で学ぶのであり、生の講義で聞くということだけが違いで、特に余人を排した閉鎖的な環境の中で行われるわけではない。また普段の生活をしながら通いで講義を受けるわけなので、特に睡眠不足や過労の状態で講義を受けるわけでもなく、時間の関係で青年のセミナーのようにレクリエーションやスポーツなどが行われることはない。にもかかわらず、壮婦のツーデーズ・セミナーが青年の合宿セミナーに比べて教育力が劣っているかといえば、決してそんなことはない。講義時間が短いので獲得する知識の量は減るかもしれないが、しっかりとポイントをつかんで理解し、次の段階に進んで行く人は大勢いたのである。

 原理研究会における合宿型のセミナーと壮婦のための通いのセミナーの両方を担当した私が結論として言えることは、都会を離れた研修所に合宿することや、短期間で数多くの講義を聞くこと、比較的プライバシーの抑制された環境下で集団生活をすること、レクリエーションやスポーツ、班長による面接などは、回心を生み出すための必要条件ではないということである。なぜなら、こうしたものを受けても回心せずに、結局は伝道されずに去って行く人が大勢いる一方で、こうしたものがまったく無くても回心し、伝道される人が大勢いるからである。事実、壮婦のための通いのツーデーズ・セミナーを通して多くの人が伝道され、いまでも信仰を持ち続けている。こうした環境的な与件は、回心の本質的な要因ではなく、結局その人が伝道されるかどうかは、教えそのものを受け入れるか否かによって決定されるのである。

 ツーデーズ・セミナーの講師は私が務めたが、当時の私の年齢は24~26歳であり、そのような若者が30代から40代の家庭の主婦、ときには自分の母親よりも年上の60代の方に説教じみた内容の講義をするわけだから、今になって考えればよく黙って聞いてくれたものだと思う。私はビデオ・センターのカウンセラーから「このビデオセンターの所長です」とゲストに対して紹介された。それ以上に何か大げさな形容をして紹介されたことはない。どんなに権威付けをしても、その人の本質は語る内容や態度を通して現われるものだから、余計なことを言わなくても良いとカウンセラーを指導していたためである。

 私と受講生との年齢的なギャップ、および極めてシンプルな紹介の仕方にもかかわらず、私は多くの受講生に「先生」として受け入れられ、その前で一定の権威をもって語ることができた。それは受講生たちが私自身を見ていたのではなく、私が語る内容に集中していたからであると思う。語る私に人生経験や個人的な内容がなくとも、語られている内容が奥深い真理を含んでいたために、その内容そのものの権威が時として受講生を圧倒し、感動させるのである。私は原理研究会にいた頃から原理講師を幾度も担当してきたが、常に「人の心は神が動かすのであって、小手先の技術によって感動が生まれるのではない」という信念に従って講義をしてきた。したがって、講義のための最高の準備はどのように上手に話をするかという話術の研究ではなく、自我を捨てて、その人に神が語ろうとする内容を伝える通過体となり、媒介となることであり、そのための最高の手段が祈りであった。これが私が講義に望むときの基本姿勢であった。

 講義の内容は、1日目が創造原理の内容であり、二日目が堕落論と復帰原理であった。復帰原理の内容は、「歴史の同時性」の説明をもって終了する。個々の事実と年代を挙げながら、いかに人類歴史が繰り返しているかを説明すると、多くの受講生が感動すると共に、いま自分が生きている時代がちょうど2000年前にイエス・キリストがこの地上に誕生したのと同じような時代なのだということを理解するようになる。ツーデーズの講義を聞き終わって、内容を理解して関心を示した人は、「メシヤ」という存在について関心を示すようになる。メシヤが誰なのか知りたい、メシヤに会ってみたいという欲求を持つようになるのであるが、もちろんすべての人がこのようになるわけではない。ツーデーズ・セミナーに対する反応は人それぞれであり、神にも罪にもメシヤにもまったく関心を示さずに、そこで勉強を中断してしまう人もいる。そういう人をそれ以上つなぎとめておくことは不可能で、自然にビデオセンターには通わなくなってしまう。

 しかし、ツーデーズ・セミナーで感動し、その内容を真理として受けとめた人は、結論を早く知りたいと思うようになる。そういう人に対しては、メシヤに出会うためにはそれなりの心構えがいるから、そのための勉強を継続しましょうと勧める。それは「ライフトレーニング」と呼ばれる一連の講義で、週に2回くらいづつビデオセンターのある施設に通ってきて、一連の講義を聞く約束を取るのである。この「ライフトレーニング」の講義も、私がビデオセンターの所長をいている間は、私自身が担当した。この決定プロセスには、櫻井氏の言う「ノリノリの雰囲気」(p.233)などというものは一切なかったが、関心のある受講者は自らの意思で先に進むことを決定した。

 このように、壮年壮婦と青年学生では、同じ「ツーデーズセミナー」でも環境はまったく異なるが、教えられる内容はほぼ同じで、詳しさや講義時間が異なるだけである。そしてどちらも、関心のある人は学び続け、関心のない人は去っていくという結果となる点でも同じである。人が伝道されるプロセスという観点からすれば、セミナーの外的な環境の差異は、さほど本質的な違いをもたらさないのである。ましてや櫻井氏の言うような寝不足や疲労感などというものは、宗教的回心とは何の関係もないものである。

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