書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』83


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第83回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、「13 伝道」について説明している。(p.254-256)櫻井氏は初めに「統一教会信者にとって、伝道とは自分が勧誘されてきた経路を新しい人達にたどらせることにほかならない。」(p.254)と述べているが、これは統一教会に限らずどんな宗教にも当てはまりそうな説明である。ただし、ここで櫻井があえて「勧誘」という言葉を使っていることに注意したい。なぜなら彼は「本章では統一教会が布教行為と明言しないで行っている行為を勧誘と呼ぶことにしたい。統一教会の信者達には伝道しているという意識がある。しかし、街頭や戸別訪問で対象者に話しかける際に、宗教とさとられないよう、またそういう質問を受けても宗教ではないと言うように指示されていた。これでは一般市民にとって勧誘以外の何ものでもない。」(p.218)という前提で「勧誘」という言葉を使用しており、統一教会の信者たちが行っているのは「伝道」の名に値せず、「勧誘」に過ぎないという価値判断をしているからである。

 そもそも「伝道」とは主にキリスト教において使われる言葉であり、基本的に信仰を持っている者が使う言葉である。類義語に「布教」「宣教」「唱導」などがあるが、天理教の「においがけ」や「おたすけ」、創価学会の「折伏」や「公宣流布」など、特殊用語が用いられることもある。そこには外部の者からは即座に理解できないその宗教特有の世界観が込められていることも多い。「伝道」は信仰を持たない第三者から見れば「勧誘」に見えるわけであるから、第三者に過ぎない櫻井氏がそう呼んだとしても知ったことではない、統一教会信者にとってそれは「伝道」なのだと言えば済む話なのかもしれない。しかし、櫻井氏の価値観によれば、信教の自由が存在せず、キリスト教が迫害されているような国で、自らの信仰を公にできない状況下で密かに伝道活動を行っている宣教師たちの行為も、「伝道」と呼ぶに値せず、「勧誘」に過ぎないという判断になってしまう。「伝道か?勧誘か?」という議論にそれほど意味があるとは思わないが、櫻井氏のものの言い方は、宗教的な価値判断を控える中立的な立場ではなく、宗教者の主観の世界にまで土足で踏み込んで、その信仰を侮辱することを目的としているとしか思えない。要するにこの本は、学問の体裁をとった敵意の表明なのである。

 続いて櫻井氏は伝道の二つのやり方として、(1)家族・友人を展示会やビデオセンターに誘う、(2)路上でアンケート調査や手相見と称してビデオセンターに誘う、を挙げている。この内容自体はこれまでの彼の記述の繰り返しなのでここでは取り上げない。問題となるのは、それに続く櫻井氏の統一教会の伝道方法に対する評価である。
「伝道の仕方は講師がまず伝道の心構えを講義し、受講生達は班長と共に街頭に出る。当然のことながら、座学で原理講義を習っただけの受講生が人に統一教会の何たるかを伝えられるわけがない。統一教会が受講生たちに求めていることは、路上や訪問でともかくも人を呼び止めたり、玄関のドアを開けさせて話を聞かせたりして被勧誘者をビデオセンターにつなぐことだ。」(p.255)

 これは統一教会に限らず、どんな宗教でも同じことなのではないだろうか。伝道されたばかりで、最初から教義をすらすらと説明できる人はまれであり、組織や先輩の助けなしに一人で伝道活動ができる人も少ないであろう。最初は不安や葛藤を抱えながらも、先輩がやる姿を見よう見まねで実践しながら徐々に慣れていくというのが普通であろう。それは新入社員の営業研修でも同じことで、最初から上手にやれる人はまれで、徐々に慣れて上達していくわけである。櫻井氏は、統一教会の信者教育はひたすら教説の学習を繰り返した後で初めて実践内容を教えられるものであると批判している割には、この段階では「座学で原理講義を習っただけの受講生が人に統一教会の何たるかを伝えられるわけがない」と言っている。それではいつ実践を始めたらよいのか? 教義の概要を一通り学び、伝道することの意義と価値を頭で理解した実践トレーニングの段階で、先輩の指導の下に体験的に伝道実践をしてみることは至極まっとうなやり方であると思われる。

 櫻井氏は、「統一教会の伝道方法は非常にシステム化されているために、各教会員が自分で伝道した人を最後まで育成することはない。もちろん、最初に伝道したものが霊の親、されたものが霊の子として、教会員である限り終生交流を持つこともあるのだが、信者としての育成や組織の中の仕事において直接関わり続けることはない。このために受講生に対して人を呼び止めるだけの役を与えることが可能になる。彼らも呼び止めた後どうするのかは班長の判断に任せればよいと言われる。生半可な教義理解や信仰の段階で人を誘うことに躊躇してしまうものにも、アベルの命令を神の意志として従うことが信仰だとアドバイスすることで、人を誘う心理的負担を軽くすると共に、自ら判断しないことを信仰として強化するのである。」(p.256)

 櫻井氏の指摘するシステム化された伝道方法は、もともと統一教会に存在した伝統ではなく、1980年代から連絡協議会によって導入されたビデオによる原理講義の受講システム、さらに青年伝道のシステムとして開発されたライフトレーニング、新生トレーニング、実践トレーニングなどとして構築された日本独自のものであると言える。こうしたシステムの開発は伝道の効率化、コストパフォーマンスの向上に貢献したと考えられるが、統一教会の内部で必ずしもプラスの側面だけが認識されているわけではないことは以前に述べたことがある。

 統一教会における伝道行為は、伝道する側である「霊の親」が伝道される側である「霊の子」を愛し、み言葉を語って育てることにより、親の心情を復帰し、人格を向上させるという意味付けがなされていた。霊の親は手間暇をかけて霊の子を育てるからこそ、一人の人間として成長できるという考えが、伝統的な統一教会にはあった。しかし、「霊の子」の教育をビデオ受講、専門のカウンせラー、そして一連の教育システムに任せることにより、「霊の親」は信仰者として成長する機会を奪われてしまったという評価も一方で存在するのである。

 しかし、だからと言って櫻井氏が指摘するような、「信仰が自己の心の問題として育っていかない」(p.258)という結論に持っていくのも大きな飛躍である。なぜなら、こうしたシステム化された伝道方法の中でも、やはり人は信仰的に成長していくという事実があるからである。ビデオセンターのカウンセラーや修練会の講師は「み言葉を語る」という役割をする。多くの対象に対して普遍的な内容を語るという点では、彼らは訓練された専門家という側面を持っている。こうした人は統一教会の信者の中でも少数であり、誰でもこうした役割ができるわけではない。しかし、それは一般の宗教団体でも牧師や教師は特別な訓練を受けた人でないとできないのと同様であり、むしろ統一教会は一般の信徒が積極的に伝道活動に関わっている団体であると言える。

 一方で、霊の親の役割は「み言葉を語る」こと以上に、無条件に霊の子を愛し、その心を受け止めてあげることにある。人は正論を聞かされただけで伝道されるものではない。その人が抱えている個人的な事情、人間的な思いをそのまま受け止めて、黙って聞いてあげたり、プレゼントを送ったりして、言葉によらない愛情を示してあげることが霊の親の主な役割であり、実際そうした霊の親の姿に感動して伝道される人は多い。そうした愛情の注ぎ方を通して信徒は信仰的に成長しているのであり、伝道活動を通して、愛するとはどういうことかを学ぶ信徒は多いのである。そして櫻井氏も認める通り、霊の親と霊の子が終生交流を続けることは統一教会の伝統である。

 また櫻井氏は、実践トレーニングの班長達が、受講生たちとほぼ同世代の先輩信者であり、受講生たちが成長した数年後の姿であることにもあえて触れていない。最初は見よう見まねで出発するかもしれないが、そうした受講生たちの中からやがて新しい者を指導する班長が生まれ、カウンセラーが生まれ、講師が生まれるというように、若者たちは一定の期間をかけて成長していくのである。

 伝道方法がシステム化されたことにより、霊の親が霊の子に講義をして育てる機会は昔に比べて少なくなったかもしれないが、これは例えて言えば、家内制手工業から工場制手工業への発展のようなものであり、手作り感を重視するか効率性を重視するかという選択の問題であろう。もっとも、霊の親が霊の子に講義することによって霊の親としての自覚が育ち、成長するという考え方がなくなったわけではない。信徒一人ひとりが講師になる道としての「チャート式原理講義」の導入や、ブラジルにおける伝道の成功例である「ホームグループ・一対一・オイコス伝道」を日本に導入しようという試みなどは、そうした原点回帰の一環であると考えられる。

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