アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳25


第3章  統一教会の信条(2)

統一神学はまた、その真理性の証明のために科学に訴える――実際にそれは、科学と宗教の間にあるギャップに橋渡しをすると主張する。『原理講論』は、特にその最初の章において、神の創造物を観察することによって神の性質を理解することができると論じることによって、ある種の「自然神学」を提示する(注11)。神の原理、その目的、その願いはまた、歴史を通して、特にイエスの時代までのユダヤ人の歴史、およびそれ以降のキリスト教史の中にも表れていると言われている。特にカリフォルニア州で、またその他の統一教会センターにおいて、各個人が自然界と社会においてなした自身の個人的体験にも、かなりの強調が置かれている。ソクラテス的な問答法が、入会する可能性のある人々から、教えの真理性に向いている「明らかな」答えを導き出すために使われている。

しかし、『原理講論』がもっているその真理性のさらなる証明が一つある。それが「作用する」という主張だ。統一神学は、それが経験的に現れると信者たちが信じているという点において、実用的な神学である。それを信じ、それに従うことによって生じる目に見える結果のゆえに、それは真理に違いないと理解するのである。ある程度までそのような証明は、その形態はどうであれ、裏付けになり得る。もしその運動が成功しつつあれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、神は彼らの側におられるということを示している。もし、その運動が激しい敵意と反対に直面しているのであれば、これは、その運動が神の望まれることを行っているがゆえに、サタンが懸念しているということを示しているのである。もちろん、歴史上には、自らの位置を裏付けるためにそのような論理を用いた多くの宗教が存在してきた。しかし、神の真理とこの世に起こっていることとの関係を認めるいかなる「実践神学」もまた、その反証になると思われる証拠を人々が見いだすであろうというリスクを負っている。多くのムーニーたちが彼らの周囲で起こっているあらゆることを解釈することによって、自らの信仰を強くしてきたということには疑いの余地がない一方、その実践的な神学は運動にとって両刃の剣であることを証明してきた。そのメンバーの多くは、原理が「作用する」ということを信じなくなったか、あるいはそれが作用する方法をもはや歓迎しなくなったがゆえに、脱会した。

『原理講論』

他の人々が重要で根本的な真理であるとみなしていることが何であるかについて、非信者が満足の行く解説をするのは常に困難なことである。『原理講論』は、その複雑な教義を甚だしく不当に扱うことなしには、要約できないということもまた認識されるべきである。簡単な説明によって誘発される、より明らかな「でも、本当に・・・?」という考えの多くは、神学が全体として学ばれたときに答えが与えられるであろう。言い換えれば、以下の記述に基づいて『原理講論』を神学的に審判することは不公正であろう(注12)。ここで、そして本書の他の場所において、統一教会の信条の描写は、社会的現象を解明するのを助けることを主たる目的としている。

統一教会は、それ自体を単なる一つの宗教として見ているのではなく、全てのクリスチャンを、そして実に全ての宗教を一つにするために現れたものだと見ている。ちょうど新約聖書が旧約聖書の新しい見方を提供したのと同じように、メンバーたちは、『原理講論』が聖書やその他の経典のより深い解釈を提供すると信じている。統一教会の信条の多くは、正統派クリスチャンたちに、そしてより低い度合いでユダヤ教徒やイスラム教徒たちにもなじみがあるものであり、容認できる。主な相違点は、統一神学の堕落の解釈、歴史の意味、三位一体の理解、キリスト論、そしてメシヤ信仰に基づく至福千年説にある。私が主に集中するのは、これらの点についてである。(本文の参照ページは、一般的に「レベル4」として知られている『原理講論』の概説書のものを指している)(注13)。

『原理講論』の主な特色は「プロセス」の強調にある。それは構造それ自体よりむしろ、構造と構造の関係に集中する神学だ。それは「存在」というよりむしろ、「行動」と「生成」の神学である。『原理講論』は神を、いくつかの基本的で普遍的な原理に従って世界を創造した人格神として提示する。あらゆる被造物は陽性と陰性(男性と女性)の要素あるいは構成単位からなっており、それらが「授受」作用の関係において一つになるときにより組織された全体をつくり、それ自体がさらなる構成単位との授受の関係をもつことができる。男性と女性の区別は、正反対というものではなく、道教における陰陽の相補性に似ている(11ページ)。

自然は神の反映なので、神はご自身の性質の中に男性的側面と女性的側面をもっており(11ページ)、神は、人間が感情を抱くのと同じように感情を抱く。しかしながら、最も本質的な神の性質は「心情」である。心情は愛したいという衝動であり、その愛の対象と愛において一つになろうとする衝動である(13ページ)。「対象がなければ、神は愛そうとする衝動、すなわち自分の中から無限にわきいずる衝動を満足させることはできない。神は愛したい衝動の対象として、被造世界をつくられたのである」(22ページ)。

あらゆる生き物は三段階の成長期間を通過しなければならず、この期間、神はご自身の原理(普遍的法則)を通して間接的にのみ、それらと関わりをもつことができる。しかし、この三段階を通過する際に人間は、他の生き物とは違って、自ら進んで愛する能力を成長させようとしなければならない。彼は、原理の影響によって動かされる単なる人形ではなく、神の命令に従う責任があり、彼自身の自由意志によってそうしない限り、完成に達し神との「直接的」関係に至ることができない(29ページ)。神のみ旨を成就することにおいて、人間の責任分担は「5パーセント」として、神の責任分担は「95パーセント」として見ることができるが、その5パーセントの責任分担を完遂するために、人間は100パーセントの努力を投入しなければならないのである(89ページ)。(注14)

神が最初にアダムとエバを創造したとき、『原理講論』によれば、神の計画は、彼らが必要な成長期間を通過すべきであり、それから結婚によって結ばれる準備をするということだった。彼らは真の父母になり、彼らの子供や孫が世界に生み増えるはずだった。夫と妻として彼らは互いに横的な授受作用をする。彼らは「上方」では神と、「下方」では子供たちと縦的関係をもつのである(注15)。これは、統一神学が呼ぶところの理想的な四位基台、すなわち神が作用することのできる根本的な基台を成立させることになる(21ページ)。この神を中心とした四位基台は、人間が三大祝福として知られているものを成就するときに達成される。神の第一祝福は自らの人格を完成するための人間の能力であり、第二祝福は人間が理想家庭をもつための能力であり、神が人間に与えた第三祝福は、被造物全体に対する主管性の権能である(24~25ページ)。

「三大祝福が完成した世界は、神と人間が完全に調和し、また人間と万物世界が完全な調和をなす理想世界である。このような世界がすなわち地上天国である。・・・そのような世界には、争いも犯罪も存在しない。そのような地上生活を送った後に死ねば、(その人の)霊人体は肉身を離れて霊界に行く。そこで彼は、天上天国において永遠に生きるのである。」(25~26ページ)

シンボルと表はどちらも、陽陰の二性性相を示している。(これらの図表は『概説原理講論レベル4』11ページから取ったものである)(3章76ページ)

シンボルと表はどちらも、陽陰の二性性相を示している。(これらの図表は『概説原理講論レベル4』11ページから取ったものである)(3章76ページ)

神を中心とした授受作用を通して造成されるよう意図された本然の四位基台(「レベル4」21ページ)。(3章77ページ上)

神を中心とした授受作用を通して造成されるよう意図された本然の四位基台(「レベル4」21ページ)。(3章77ページ上)

 

 

 

 

 

 

 

 

(注11)郭『概説統一原理』6-9ページ。(訳注:文中に出てくるページ数は、英語版の『レベル4』の該当ページ数を指している)
(注12)神学的批判のついては、特に以下を参照のこと。アグネス・カニングハム、J・R・ネルソン、W・L・ヘンドリックス、J・ララ・ブランド「『原理講論』に明記されている統一教会神学の批判」米国キリスト教協議会・信仰と職制委員会の公式研究文書、10027、ニューヨーク州ニューヨーク市リバーサイド・ドライブ475番、1977年。H・リチャードソン(編)『統一教会に対する10人の神学者の返答』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1981年。M・D・ブライアント(編)『統一神学に関するヴァージン・アイランド・セミナーの議事録』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1980年。
(注13)郭『概説統一原理』
(注14)これらの割合は概念的なものであり、あまり文字どおりには取るべきでないということを、より「根本主義的」でないムーニーたちが私に何度も指摘した。
(注15)人が生涯において学ぶべき三つのタイプの愛が示されている:第一に(真の)父母に対する愛、第二に配偶者に対する愛、第三に子女に対する愛。

 

 

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