ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳16


第2章(9)

 統一神学と統一教会のメンバーの態度および行動の関係は、複雑かつ逆説的である。この複雑さは、主として私のインタビュー対象者のおよそ半分がグループの神学に対する詳細な知識だけでなく、神学と実践がダイナミックな相互関係を持っているという見解をも示唆したという事実にみられる。残りの半分は神学を重要ではあるが、宗教的共同体における生活と信仰に対する二次的な付加物であるとみなしているように見えた。神学をより強調した者たちは、統一神学大学院および一流大学において正式の神学教育プログラムに現在関わっていることによって、後者のグループと区別された。したがって、おそらく彼らの現在の「使命」の性質が、なぜ彼らが共同体における生活と実践により高い優先順位を置く「兄弟姉妹たち」と違っていたのかを説明しているのであろう。さらに、統一教会のメンバーの圧倒的大多数は神学教育の使命には関わってない。したがって、私は神学によって定義され、強化され、根拠を与えられる実践は、グループが持つより一般的な指向性であると思う。

 神学と実践の逆説的な関係は、以下の点にもみられる。一方で、運動はメンバーに対して定期的な講義や特別な修練会を通して、統一原理の内容を教育することを非常に重要視するが、また一方では、グループのメンバーであることを信条に同意することや神から来る神秘的直観を授かることよりも、むしろグループの活動に参加することによって定義するという、やや広く行き渡った傾向があるように見える。このことは、私がインタビューした対象者たちが、原理講論の前編の第一章(「創造原理」)と第二章(「堕落論」)に対する実直な(必ずしも文字通りのというわけではないが)信奉は別として、無批判的な根本主義からより内省的な福音派自由主義に至るまで、多様な神学的視点を持っていたという事実からも明らかであった。さらに、これらの対象者は、グループの本物のメンバーは本質的に個々人が一定の限界の枠内で自由に、非常に個人的なやり方で信仰を解釈する(「神学を行う」)という条件付きで、統一教会の生き方を採用することに関わっている、という考えを共通に持っていた。例えば彼らは、個人がグルームに持ってきたもの、すなわち、彼もしくは彼女の宗教的背景と個性は、彼らがグループの神学をどのように解釈するかと大いに関係があるとしばしば言っていた。神学的見解の多様性はグループへの参加の強調と合わせて、「ムーニー」を「他のムーニたちと同じことをする人」と定義することに一定の支持を与える。(注84)そのような外延的定義は、もちろん完全に正確というにはあまり表面的であり、あまりに狭義に行動主義的であろう。しかし、それは運動の特定の行動規範の順守に基づいた適切な参加に対する関心をを強調する上では役に立つ。(注85)本物のメンバーを神学的によりも「社会学的に」定義する傾向は、元統一教会員の書いたものにも見ることができる。彼らは運動における自分たちの生活を、おもに集団関与の力学という視点から記述してきた。(注86)

 上述の逆説は現実のものではないが、「正当的秩序」(注87)または「正当化」(注88)という社会学的概念の観点から論理的に説明できるので明らかである。ピーター・バーガーによれば、正当化とは「・・・社会秩序を説明し正当化することに役立つ、社会的に客観化された『知識』」(注89)のことである。統一運動は、その生活様式を拘束する長年にわたる文化に根差した伝統を持たないという意味において「新」宗教である。したがって、グループ自身の「自己正当化の事実性」(注90)に加えて、組織はその神学の啓示された真理に含まれる妥当性確認に強く依存している。その真理は、しばしばおもに文師の生涯と教えに関連した口伝の伝承や格言によって強化される。神学的正当化は、常に露骨に懐疑的でしばしば敵対的なより大きな世界に直面しているそのメンバーに対して、この運動がその生活様式を説明し正当化するのを可能にする。(注91)これは、今日のアメリカ社会の標準的なアプローチから多くの点で異なっているグループの性と結婚に関する実践においては、特に真実である。例えば、アメリカにおける高い離婚率は統一教会員にとっては、技術的・経済的要因によって説明されるべきものではない。むしろ、この現象は人間の共同体を堕落させようというサタンのまた一つの努力であると見られているのである。運動における低い離婚率――どのメンバーと話すかによるが、約1%から3%――は、人間存在に対する神の目的という永遠の基台の上に結婚を成立させようというグループの努力を示している。成功した結婚は、このように神学的に説明され正当化されているのである。さらに、文師がメンバーに対して配偶者を「推薦」するのは、東洋の家父長制の名残や、宗教共同体としてのグループを統制し結束させる効果的な方法としてではなく、神の特別な代理人が世界の歴史の「終末」に果たすべき「論理的な」役割であると理解されている。

 社会学的な視点からすれば、神学的正当化はこの運動の二つの相互に関連したニーズに役だっている。それはすなわち、社会化(socialization)と社会統制である。新しいメンバーは、神学的に定義され正当化された何らかの社会的役割を担うことによって、グループに同化されていく。神は普遍的な親であるが故に、すべての神の子供たち、すなわち運動のメンバーは、兄弟であり姉妹である。これらの仮想の親族関係の役割と関係は、究極的現実に根ざしており、ある者の社会的役割からの逸脱(例えば、兄弟と姉妹の間の恋愛感情を伴う愛着)は、グループの規範を犯す以上のことであり、神に対する罪なのである。個人は、彼または彼女の兄弟または姉妹としての役割を、神から与えられたものとして認識することを学び、その役割から逸脱したいかなる行動も、背信に由来するものであると理解するのである。このように、社会化と社会統制は神学的正当化によってうまく支えられている。統一神学のこの社会学的機能は、この研究の後続の章においてより完全に実証されるであろう。

(注84)この言い回しは私自身によるもの。私が話した統一教会員は、ムーニーと呼ばれることを気にしていなかったということを付け加えておこう。そう呼ばれることが好きだという者さえいた。
(注85)運動においては二つの規範が機能している。(1)運動のメンバー全員に適用される一般的な規範;および(2)グループにおけるその人の特定の役割と地位に基づく個々の規範。これらの規範は、生活を送る上での書かれた規定のリストとして現れることはめったにない。それらはもっとグループのコンセンサスに関わることであり、彼らの最高の模範は年長の、より霊的に発達したメンバーの中に見出される。
(注86)以下の著作を見よ。エドワーズ『神に夢中』;エルキンズ『天的詐欺』;アンダーウッドとアンダーウッド『天国の人質』;およびウッド『ムーンストラック』。
(注87)マックス・ウェーバー『社会的および経済的組織の理論』A・M・ヘンダーソンとタルコット・パーソンズ訳、タルコット・パーソンズの序文付き(グレンコー、Ⅲ:ザ・フリー出版、1947年)、pp.124-132
(注88)バーガー『聖なる天蓋:宗教の社会学的理論の要素』、pp.29-51
(注89)前掲書、p.29
(注90)前掲書、p.31
(注91)バーガーによると、「宗教は、経験的社会の不安的な現実構成を究極的現実と関わらせるので、非常に効果的に正当化する」(前掲書、p.32)。

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