書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』75


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第75回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」においてフォーデーズセミナーについて解説する中で、「8 セミナーの構造」として以下のようなポイントを挙げている:(1)閉鎖環境とスケジュール管理、(2)指導階梯の徹底、(3)集団心理としての感応、(4)批判的思考を妨げる研修のルール、(5)スタッフによるケア、の5つである。これらはいわゆる「マインド・コントロール理論」において主張されていたことと大差がない。これは米国の心理学者マーガレット・シンガー(1921–2003)が1986年に発表した、「詐欺的で間接的な説得と支配の方法」に関する報告書の中で述べているマインドコントロールの5つの構成要素である、①社会的・物理的環境のコントロール、②家族との接触を断ち無力感に陥れる、③一連の報酬、罰則、経験による組織化と操作、④組織批判ができない閉鎖された論理システム、⑤特別な無情報状態の存在――と極めて似通っていることからも明らかであろう。こうしたセミナーの特性によって受講生の心理を操作することが可能であるという主張には科学的根拠がなく、逆に大多数の者がこうした環境に抵抗して自分の意思を貫くことができるということが、さまざまなデータによって立証されている。こうした議論をする際には、セミナーの構造の分析だけでは不十分で、その効果を定量的に測定しなければ意味がないが、櫻井氏はそれを行っておらず、「青春を返せ」裁判の原告たちの主張を繰り返しているだけである。これらの分析は使い古されたもので、あまり価値はないので、ここではそれに対する批判は繰り返さない。

 櫻井氏はフォーデーズの説明の冒頭部分で、「このセミナーの目的は、受講生に統一教会の信者として献身生活を決意させることにある」(p.235)と断言しており、その最後の様子を以下のように締めくくっているので、今回はその部分に注目してみたい。
「フォーデーズセミナーを通して、受講生たちは統一教会がどのようなところか、大要を教えられたように思う。しかし、その理解は抽象的なままにとどまっている。統一教会に献身するということの意味は、献身的な努力をするくらいにしかわかっていない。だからこそ、セミナー修了後のパーティーで決意表明を促された際に、私は献身しますと宣誓できるのである。」(p.244)

 フォーデーズの終了後に支部でパーティが開かれ、そこで「献身の決意表明」をする宣誓式のような行事がどのくらい広範に行われていたのかは定かでないが、少なくとも札幌「青春を返せ」裁判の原告たちはそのような儀式をしたと主張しているようである。もしそのような行事が行われたのが事実であるとすれば、それはキリスト教における「信仰告白」と似た儀式であったと理解できる。これは統一教会の正式な宗教儀式ではなく、現場の信徒らが自らの創造性によって編み出した独自の慣習であると考えられる。しかし、それは信徒らの主観の中においては重要な宗教的意味を持つものであったと思われ、その宗教的意義は尊重されるべきであると考えられる。

 キリスト教における信仰告白とは、イエス・キリストに対する信仰を、明白な言葉をもって言い表すことを指す。信仰を告白することの重要性は、以下のような聖書的根拠を持つ。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙第10章9-11節)
「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか」(ヘブル人への手紙第4章14節)
「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである」(ヨハネの第一の手紙第4章15節)

 このようにキリスト教においては、自己の信仰を公的な形で告白することは、宗教的アイデンティティーを確立する上で極めて重要な意味合いを持っていたことが理解できる。それはその人の魂の成長や内面の刷新にとって必要不可欠な宗教的儀式であり、いわば「信仰告白」をするかしないかによって信者であるかどうかが見分けられるほどに決定的な意味を持つものであった。

 櫻井氏も認めているように、この時点での受講生の統一教会に対する理解は「大要」に過ぎず、「その理解は抽象的なものにとどまっている」(p.244)。したがって受講生たちがフォーデーズ終了後に行ったとされる「献身の誓い」なるものは、それをなすように指導する側にとっても、それを行う受講生にとっても、自らの内面における決意を示す信仰告白に過ぎず、具体的な活動に関するものではない。したがって、そのことと受講生がそれから具体的にどのような活動に参加するかということは別問題なのであり、そのことは受講生にもスタッフにも十分理解されていた。したがって、そこには一切の情報の秘匿はなく、十分に説明された通りの行為を同意に基づいて行っているに過ぎない。

 信徒たちが行っていたさまざまな統一運動を支える活動に関しては、それを行う段階に至った時点で、その都度意義と価値の説明を受けるのであり、それを行うかどうかは本人の自由意思で判断できるようになっていた。したがって、フォーデーズ終了後の「献身の誓い」がその後の具体的な活動を行うことの誓いとして理解されることはなく、またそのように機能することもない。また、このときになした誓いを言質として、その後に活動を強要するという事実も存在しないし、たとえ後日この誓いを破棄して信仰の道を去ったとしても、そのことによって何らかの罰則や不利益を被るということもない。これは何ら法的・組織的な拘束力のない口頭の宣誓であり、一種の宗教的儀式に過ぎないものである。

 確かにこの時点では受講生は信仰生活に関する具体的な指導や、先輩の信徒たちがいかなる実践活動を行っているかについての情報はまだ受けていない。しかし、そのような情報は分かりやすいように順を追って段階的に説明されるのであり、その都度納得したことだけを受け入れれば良いようになっているのである。そして、信仰生活の具体的なあり方を紹介するための「新生トレーニング」の概要が説明され、それへの参加することを通してさらに信仰の道を深めていくように勧められるというあり方は、極めて親切であり、何の問題もない。

 この点を櫻井氏は「9 新生トレーニング」の説明の中で以下のように批判する。
「一般の宗教団体であれば、信者になる決心をする前であっても、全てではないにせよ教団の様々な活動を知ることができるし、教団はむしろそうしたものにふれてもらうことを教化活動の中心に置いている。一般の子供や青少年達、信者の子供にできるだけ活動に参加してもらう。そうした活動がどのような教義や教団の方針に基づいているのかを徐々にわかってもらえばよろしいし、あえて説明することすらしないこともある。

 ところが、統一教会では一般市民に統一教会信者となることを強く勧め、献身まで誓わせているにもかかわらず、では具体的な教団活動にどのようなものがあるのかを新生トレーニングに入るまで明かさない。ビデオ学習から始まり、二つの合宿セミナーを含め数ヶ月かけて教説のみを学習する。神の摂理では統一教会信者として献身することが最高の幸せであり、人類に課せられた使命の一点張りである。具体的な宗教活動を示して、ではそれはどのような人間観や世界観に裏打ちされたものなのか知ってみたいと関心を持たせるような教化方法ではない。」(p.246)

 これは要するに、「教義が先か? 実践が先か?」という問題であり、科学の教育においては「座学が先か? 実験が先か?」と似たテーマにであるように思える。人にはいろいろなタイプがあり、理論面から関心をもって実践に移っていく人もいれば、体験を重視して理論は後からついてくるという人もいる。宗教団体の個性も同様にさまざまで、まずは教義を理解することを重要視する主知主義的な宗教も存在すれば、「考えるよりも先に体で感じなさい」という体験重視型の宗教も存在する。櫻井氏のいう「一般の宗教団体」なるものがどのくらい一般的なのかは不明であるが、一般大衆に対して奥義を公開しない秘密主義的な宗教や、そもそも広く教えを流布することを目的としないエリート主義的な宗教も存在するのであり、そのどれが良いのかということを決めることはできない。統一教会の信徒たちが行っていた伝道の方法も、彼らなりの試行錯誤を繰り返して確立した一つの方法に過ぎず、それは一つの個性として認めるべきなのではないかと私は思う。

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