書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』58


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第58回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は本章の「3 入信の経緯と信者のライフコース」の中で、青年信者と壮婦の大きく二つに分けてそれぞれのライフコースを簡略に示しているが、同じ未婚の青年でも、「大学のキャンパスにおいて原理研究会に勧誘された学生の場合、青年信者と異なる点は、大学卒業まで統一教会の事業専従者になることが引き延ばされている点と、経済活動(訪問形式や各種展示会の物販)に従事させられることが少ないという点である。」(p.206)と述べている。筆者は「大学のキャンパスにおいて原理研究会に勧誘された学生」に属するわけだが、これは学生時代に教会で伝道された青年でも同じであろう。草創期ならともかく、1980年代以降において統一教会の信仰を受け入れた大学生が学業を放棄するように勧められたり、実際に放棄したりした例がそれほど多いとは思えない。筆者の場合にも大学は無事に卒業したが、教会の青年部では大学を中退しているという話は当時も今も聞いたことがない。原理研究会であるなしに関わらず、学生は大学を卒業するまでは進路の問題は引き延ばされているのが普通である。そして大学を卒業した際に、一般企業に就職して信仰を継続するか、統一運動関連の企業に就職するかは、最終的には個々の信者の判断に任されている。

実は原理研究会を通して教会に出会った者と、櫻井氏の提示している青年信者のライフコースの間には、卒業するまで進路の問題が先延ばしにされていることのほかにも、かなり大きな違いがある。櫻井が典型的なライフコースの中で提示しているさまざまな出来事を、筆者は体験していない。「ツーデーズセミナー」は原理研究会にもあったが、「上級ツーデーズセミナー」「ライフトレーニング」「フォーデーズセミナー」「新生トレーニング」「実践トレーニング」などのプロセスは、原理研究会には存在しないものであった。したがって、筆者はこれらがどのようなものであるかを実体験では知らないが、そうしたものが存在したことは知っており、櫻井氏の調査対象となった元信者たちがそれらを体験したことは事実と認めてよいであろう。ただし、これらを通過しなければ統一教会の信者になれないということはないし、祝福が受けられないということもない。これらは日本統一教会全体の典型的なパターンというよりは、ある時代のある組織におけるイベントの記述と考えた方がよさそうだ。

青年信者のライフコースに出てくるこうしたイベントが存在することは事実としても、櫻井氏の記述には多くの表現上の問題と事実の誤認がある。表現上の問題とは、要するに受動態の表現を敢えて多用しているという点にある。例えば、「アンケートをとられる」「面会約束を取り付けられる」「受講することを勧められる」「献身を迫られる」などの表現だが、これらは別に「アンケートに答える」「面会約束をする」「受講することを了承する」「献身を決意する」でもよさそうなものだ。それを敢えて受動態で表現しているところに、本人の主体的な意思で決断したという表現を極力避けたいという櫻井氏の異常なまでの神経の使い方が伺える。事実の記述にまでイデオロギー的な含意が盛り込まれていると言えるだろう。

代表的な事実誤認は、「⑪本部教会員となり、教団から指令された任地へ向かう。」(p.207)という部分である。櫻井氏の調査対象となった元信者たちが、統一教会の本部教会員となったのは事実であろう。しかし、そのことと教団から指令された任地へ向かうこととの間には論理的な関連性はない。宗教法人の教会員として登録されるということは、信者になったということ、すなわち信仰上の所属を決定したということであって、職業上の雇用関係が発生したり、指揮命令関係が生じたということではない。事実、札幌「青春を返せ」裁判の原告となった元信者たちの中で、統一教会の職員として雇用されていた者はいない。教団が彼らを任地に派遣したと主張するのであれば、宗教法人が発行した辞令や人事発令の公文を示すべきであろう。

櫻井氏の調査対象となった元信者の人数は66名だが、青年信者のライフコースとして示されている①から⑬のイベントのすべてを経験した元信者は2名のみであるという。たった2名で典型的なパターンと言えるのか疑問ではあるが、そもそも祝福を受けた者が66名中24名しかいなかったということであるから、彼らは信仰の比較的初期の段階で脱会したために、すべてを経験していない者が多いという解釈は可能である。こうした初期の頃には、教会の組織や実態に関して幅広く正確な知識を有していない場合が多い。彼らの証言に価値がないとは言わないが、極めて限定された知識と理解を持った調査対象から得た情報をもとに、統一教会全体を分析しようとする櫻井氏の手法には限界があり、一面的で偏った描写となっていることは指摘しておかなければならない。

一方、壮婦のライフコースに関する櫻井氏の記述は偏見に満ちている。まず、入口を手相・姓名判断、家系図鑑定などに限定しているが、実際の位置口はもっと多様であり、時代や地域によって入り口はさまざまである。吉相の印鑑、高麗人参茶、高麗大理石壺、多宝塔、弥勒像、あるいは宝飾品・絵画等の商品の販売は統一教会の事業ではなく、連絡協議会の傘下にあった企業が販売していたものだが、いずれもかなり古い時代のものである。こうした商品の購入をきっかけに信仰を持つようになった人がいたことは事実であろうが、それを典型的なライフコースと位置付けるのは言い過ぎであると思われる。

事実としてのライフコースよりも、壮婦の信仰生活の価値に対する櫻井氏の記述はほとんど侮辱とも言えるほど問題の多いものとなっている。以下に引用する。
「壮婦の場合は、青年信者と異なり、祝福後新しい家庭を出発することが実際にないので、信者としてのライフコースに大きな転換はない。統一教会の献身者という身分で専従職員の業務を担うこともなければ、祝福家庭という評価(原罪のない子を生めるという特権等)を得ることもなく、従来通りの奉仕する信仰生活を生涯求められることになる。あがりのない双六のようなライフコースともいえる。しかも、世俗の交わりをした罪深い身にもかかわらず、文鮮明の恩寵によって祝福に加わることが許されたのだからということで、青年信者よりもいっそうの献身と奉仕が求められる。」(p.208-9)

これほど誤解と偏見に満ちた「壮婦」に対する理解があるだろうかと、あきれてしまうような記述である。統一教会の壮婦が青年信者に比べて価値的に劣る存在であり、特権や評価を得ることがないという櫻井氏の理解は根本的に間違っている。統一教会では結婚してからみ言葉を聞いて伝道された壮年壮婦を価値ある存在として認識しており、青年信者との間に優劣は存在しない。むしろ、社会経験が豊富で実力のある壮年壮婦は教会の発展に貢献する存在として大切にされているのである。

実際には壮婦のライフコースには大きな転換点が存在する。それは「夫復帰」と祝福である。女性が最初に伝道されるケースが多く、統一教会における究極の救いは「祝福」にあるので、信仰を持った壮婦は誰もが自分の夫を伝道することを決意することになる。必ずしもすべての夫が妻の信仰を受け入れるわけではなく、実際には厳しいケースが多いのであるが、粘り強く夫に自分の信仰を説明し、最終的に夫を伝道する壮婦は多数存在するのである。夫婦が信仰を持つようになれば、一定の「聖別期間」(夫婦生活を自粛する期間)を経て「既成祝福」を受けるというのが壮婦の理想的なライフコースなのだが、櫻井氏の記述にはこれが完全に欠落している。さらには祝福前に生まれた子供たちも伝道して祝福に導くことや、祝福後に子供を生んで「祝福二世」を生み出すことなど、壮婦の信仰生活も多くの価値あるイベントに満ちており、それが信仰の励みになっているのである。こうした道を順調に歩んだ壮婦は、祝福家庭としての評価を受け、原罪のない子供を生み、さらには婦人代表として牧会者を支えたり、婦人信者のまとめ役をしたりして生き生きと活躍している者が多い。統一教会の壮婦は極めて元気でパワフルな人々であり、櫻井氏の描写するような虐げられた悲惨な信仰生活を送っているわけではない。

櫻井氏は「奉仕する信仰生活を生涯求められる」とか、「献身と奉仕が求められる」という、またしても受動態の表現を壮婦に用いて、それが悲惨なものであるかのように描いているが、そもそも壮婦であると青年であるとに関わらず、献身と奉仕こそが信仰生活の基本姿勢であり、理想である。それは強いられてやるのではなく、宗教的な動機に基づいて主体的に行うものである。献身と奉仕という宗教的な美徳に対してこのような表現しかできないということは、櫻井氏は宗教学者でありながら、根本的な宗教音痴なのではないかと疑いたくなってくる。このような歪んだ表現しかできない理由は、櫻井氏が現役の統一教会信者の壮婦に会って調査を行うという基本的な作業をしていないからである。「悲惨な壮婦」は現実の姿ではなく、裁判資料の歪んだ描写を素材として櫻井氏の頭の中で生み出された想像の産物に過ぎないのである。

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