書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』74


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第74回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の「フォーデーズセミナー」の説明の中で、「お父様の詩」(p.239-241)の内容を取り上げ、「この詩において文鮮明は統一教会信者に信仰のエッセンスを語っている」(p.241)と述べている。この詩の内容は、文鮮明師が直接語ったものではなく、日本の統一教会の食口の誰かがなんらかの啓示かインスピレーションを受けて書いたものと推察されることは、既に前回述べた。したがって、この詩は統一教会における権威ある文書となることはできないし、この詩の朗読も統一教会の正式な儀礼となることはできない。ましてや、「この詩において文鮮明は統一教会信者に信仰のエッセンスを語っている」などと断定できる資料でもない。その詩の内容を分析して統一教会の信仰の本質に迫ろうというのであるから、櫻井氏の資料批判はかなり甘いと言わざるを得ないであろう。

 しかし一方で、この詩の内容を分析することを通して統一教会の信仰の本質をとらえようとする櫻井氏の論理展開の中に、彼独特の発想法や誤解、あるいは悪意ある恣意的描写を垣間見ることができるので、今回はその点を指摘してみたい。

 櫻井氏はまず、「(1)神と人間の互酬的関係を最初に確認している。しかもその間柄は親子だとされる」(p.242)と分析する。「互酬」(ごしゅう)とは、文化人類学、経済学、社会学などにおいて用いられる概念で、英語ではReciprocityという。人類学においては、義務としての贈与関係や相互扶助関係を意味するのであるが、統一原理の用語ではReciprocityは相対性や相対的関係という意味で使われる。したがって、「相対的関係」も「互酬的関係」もほぼ同じ意味であると考えられる。櫻井氏がこの言葉を選んだのは、「私があるからお前があり、お前があるから私があるのだよ」という「お父様の詩」の一節から連想したものと思われる。

 西洋的なキリスト教神学においては、神と人間の関係が互酬的関係として捉えられることは少ない。神は創造主であり、人間は被造物である。神は偉大であり、人間は卑小である。神は神聖であり、人間は罪深い。神は与える存在であり、人間は受ける存在であるため、その関係は互酬的というよりは一方通行の関係だ。「神があるから人間がある」のみであって、「人間があるから神がある」という発想はないのである。「お父様の詩」における「お前があるから私があるのだよ」という一節は、創造の秩序を逆転させるような存在論的な主張であると捉えるよりは、親子の心情的な関係を表現していると見た方が良いであろう。このことは、人間の行動が神に影響を与え得るという統一原理における神と人間の関係性が、西洋のキリスト教神学とは異質なものであることを物語っている。統一原理の神と人間の関係の方が、むしろ「親子関係」と呼ぶにふさわしい親密なものであると言えるだろう。そしてこれが、「神様のために親孝行したい」という統一教会信者の信仰の動機に直結しているのである。

 続いて櫻井氏は「(2)子供は罪人である」(p.242)という点が普通の親子関係とは異なると主張するが、人間は罪人であり、親なる神の前に負債のある存在であるというのはキリスト教の基本的な人間観である。人間がその罪を償い、原罪から脱却するために努力することが神から期待されているというのは、西洋のキリスト教神学に比較してみたときに統一原理が強調しているポイントではある。というのは、原罪の清算に関しては「神とメシヤによる一方的な恩寵によって人間が救われる」という中心ポイントは一般のキリスト教神学においても統一原理においても同じだが、統一原理においてはメシヤを迎えるためには人間が自らの責任分担として「蕩減条件」を立てなければならないという観点があるからである。救いは何もしないでも無償で与えられるものではない。人間には責任分担があり、努力が必要だというのは統一原理の基本的な人間観である。

 櫻井氏は、子供が親を裏切り、親の思いに気づかないまま自由放縦に生きたことが罪であり、その親の期待に応えることこそが人の生きる道であるとする統一原理の世界観に対して、「孝行を要求する神」(p.238)などというタイトルをつけ、文中でもで「親孝行の押しつけ」「献身を求めている」「コミットメントを要求」(p.242)などという極めて穿った表現で描写している。しかし、ことさらに「超越神」を強調する西洋のキリスト教神学を除けば、神や仏などが人間に「恩」を与え、人間がそれに「報恩」することが期待されているのは宗教における一般的な関係であり、特に珍しいものではない。そして神と人間の関係をどのように描こうと、それは信教の自由によって保障された宗教的世界観の表現なのであり、それを受け入れて信者になるかどうかも、個人の信教の自由である。

 続く一節は、櫻井氏の宗教学者としての見識を疑うような内容になっている。
「筆者が最も驚いた発想は、この詩が『お父様の詩』とされていることにある。文鮮明が自分の意志を信者に伝えているわけだが、神の立場に立ってこれを語っている。イエスであっても自分の心を神の心として語ってはいないし、聖書の執筆者もイエスを神そのものとして描くことはなかった。文鮮明は再臨主だから神でもあるということなのだろう。」(p.243)

 櫻井氏は新約聖書の中で、イエスが自分を神のごとく語った部分があることをまさか知らないわけではないだろう。代表的なイエスの言葉だけでも以下のものを挙げることができる「わたしと父とは一つである」(ヨハネ伝10:30)、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ伝14:9)、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ伝14:11)。これらの言葉は、当時のユダヤ人からすれば神を冒涜する言葉として捉えられたため、彼らはイエスを殺そうとしたほどだったのである。その理由は「あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」(ヨハネ伝10:33)とユダヤ人たちは述べている。

 後のキリスト教神学は、こうした聖書の記述以上にイエスを神格化している。彼は「神のロゴスが受肉した存在」であり、「神が人となられた方」である。キリスト教の三位一体の教理においては、父と子と聖霊のすべてが神であるとされており、ここでいう「子」とは歴史的人物としてのイエス・キリストのことである。西暦325年に開かれたニケア公会議と、451年に開かれたカルケドン公会議で、三位一体論とキリスト論に関するキリスト教の正式な見解がまとめられたわけだが、このニケア・カルケドン信条を受け入れるかどうかが、今日に至るまで正統的なキリスト教であるかどうかを見きわめる重要な試金石になっている。ニケア信条は、父と子は「同質」であるとしているし、カルケドン信条は、イエス・キリストは「真に神であり真に人である」としている。イエス・キリストが神であるというのは、キリスト教の正統神学の重要な部分なのである。宗教学者である櫻井氏がこうしたキリスト教の基礎知識を知らないはずはない。だとすれば、彼の著書における描写はこうした事実を隠ぺいして、伝統的なキリスト教と比較して文鮮明師が自らを異常に神格化しているかのような印象を与えようとする悪質なものであると言える。

 「お父様の詩」は、統一教会の公式的な神学を表明したものではなく、信徒の間に流布していた宗教文学に過ぎないが、統一教会の神観やメシヤ観をそれなりに表現している。それは、「お前と二人で天のお父様の前に報告に行ける日を私の唯一の楽しみにしているよ」(p.240)という言葉が示しているように、「天の父」である神と自分自身が存在論的に同一であるということを主張しているのではなく、自分が神と同じ心情で子供を見つめていることを訴える内容となっている。神とメシヤが存在論的に一体であると主張する伝統的神学のキリスト論に比べるならば、統一教会における「再臨のメシヤ」は苦悩する一人の人間として描かれており、神格化の度合いは低いとさえ言えるだろう。

 最後に櫻井氏はこうした「お父様の詩」の内容に関して、「正統派のキリスト教であれば腰を抜かしかねない教説」(p.243)と揶揄した上で、それがいともたやすく統一教会の信者たちに受け止められていくのは、この詩を朗読する儀礼によって受講生の感情が揺さぶられ、正常な判断力を失ってしまうからだと主張する。はたしてこの詩には、それほど魔法のような効果があるのだろうか?

 実はこれと同じことを札幌「青春を返せ」裁判の原告たちも主張していたのだが、これに対して教会側は、「この詩が朗読されると、内容に感動して号泣する受講生が出ることは事実のようである。しかしながら号泣した人が、文師をメシヤとして受け入れるとは限らない。情緒的な人は一時の感情の高まりで涙するが、セミナー後にはその感情もすっかり冷めて、やめる人も多いという。原告らの言うような『その様な情緒に訴えられた結果、文師をメシヤと受け入れさせてしまう、認識が変えられるのである』ということはない。却って、冷静で詩の朗読の時にあまり感動しない知的な人の方が、その後の学びを進めていくとも言われている」と主張している。実際にフォーデーズに出て信者になる人の割合が4.1%~15.4%(データによって差異がある)というかなり低い数字に留まっていることも、この詩の「効果」がそれほどのものではないことを物語っている。櫻井氏はこの詩の内容に感情を揺さぶられてその効果を過大評価するのではなく、もっと社会学者らしく数値によるデータに基づいてその効果を測定した方が良いのではないだろうか?

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