北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ05


 北村サヨと天照皇大神宮教に関する研究シリーズの5回目である。前回は天照皇大神宮教で説いている神がいかなる存在であるのかを、統一原理と比較しながら分析し、表現の違いこそあれ、総合的に見ればこの二つの宗教はかなり似通った神観を持っていると結論した。今回はその続きであり、教祖と神の関係について論じる。

<天照皇大神宮教における「大神様」の位置>

 天照皇大神宮教では、教祖サヨのことを「大神様」と呼んでいる。島田裕巳は、「彼女のなかに神が宿っているということは、サヨ自身が神であることを意味し、彼女は生き神として人々の信仰を集めるようになる。」(『日本の10代新宗教』、p.92)と記述している。息子の北村義人が復員して故郷に帰ってきたときにも、サヨの放った一言が「ワシは神様になったゾ。」であったことから、彼女にも自分が神であるという自覚はあったのであろう。しかし、日本の宗教伝統は人が死んだら神として祀られるくらいに、神と人との距離感は近い。一口に「人が神になる」といっても、宗教伝統によって意味の重さは異なるであろう。一方で、北村サヨは神の使者であることから「大神様」と呼ばれているという記述もある。神の使者であれば、存在論的には宇宙の絶対神そのものではないはずだ。

 天照皇大神宮教において神様と呼ばれているのは、実は北村サヨだけではない。サヨの長男である北村義人(よしと)は「若神様」と呼ばれている。戦争から復員して故郷に帰ってきたら母親が急に神様になっていたので、当初はかなり反発したものの、「新日本建設のため、世界平和のための神行」という言葉に惹かれて本格的に信仰の道を歩むようになり、その後は教団のマネジメントを受け持つ重要な立場に立つようになったと言われる。この義人氏の娘が北村清和(きよかず)であり、サヨの後継者として指名された人物である。彼女は教団の中では「姫神様」と呼ばれている。このことから、北村サヨの血統が教主の役割を引き継いでおり、「神様」の呼称が用いられていることが分かる。

 ただしこれは、天照皇大神宮教において教祖である北村サヨとその一族を「神格化」しているということではなさそうだ。上之郷利昭著『教祖誕生』によれば、「若神様」も「姫神様」も、このいささか大仰な呼称に少なからぬ恥じらいを感じていたようであり、サヨを含めた北村家の人々は奥の院から信者たちを睥睨する「教祖様」とは異なり、質素で謙遜な生き方をしていると報告されている。現在では、「大神様」「若神様」「姫神様」は全員他界している。天照皇大神宮教の「神様」は不死の存在ではなく、私たちと同じ肉体を持った人間であり、その人が特別な使命を帯びるときに「神様」と呼ばれるのだと考えてよいだろう。

<キリスト教神学におけるイエス・キリストの位置>

 一方、家庭連合はユダヤ・キリスト教の伝統の上に立っているため、日本の宗教伝統とは異なり、神と人間の間に断絶のある神学的伝統を背景としている。キリスト教神学においては宇宙の創造主である神と被造物である人間の間には大きな隔たりがあり、人間が神になることはあり得ない。神は永遠であり、不死の存在であるのに対して、人間は有限であり死すべき存在であるという明確な区別がある。神の使者や、神の啓示を受けた人間は「預言者」という位置づけであり、彼らが神と同一視されることはない。

 しかし、キリスト教神学においては「神が人になる」ということはあり得ると考えている。人類歴史上ただ一人、神が人となって地上に顕現されたお方がイエス・キリストであるとされているのである。これは他宗教の立場からはなかなか理解しがたいことなのだが、このようになったのには複雑な背景がある。もともとユダヤ人たちが待ち望んでいたメシヤは人間であり、神ではなかった。モーセの十戒の一番初めに「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」とあるので、ユダヤ人たちにとって人間を神とすることは偶像崇拝の罪に当たるからだ。ユダヤ教におけるメシヤは「神に油を注がれた」人間、すなわち王を意味するのであり、具体的には民族を他国の支配から解放してくれる政治的な救世主がイメージされていた。

 ところがイエスの死後、異邦人たちにキリスト教が広められるようになると、イエスは徐々に神の位置にまで高められていくようになる。異邦人たちは、ユダヤ人たちがもつメシヤに対する概念や、イスラエルの政治的な解放には興味がなかった。そこでイエスのアイデンティティーは、ユダヤ人の政治的な救い主としての「メシヤ」から、民族的な色彩のない「真理そのもの(ギリシア語でロゴス)」へと変えられていく。この真理は永遠の昔から普遍的に存在するものであるから、イエスは彼が地上で宣教活動をするよりはるか昔、天地創造の以前より存在しており、一時期地上に降り立って、再び天に帰っていった存在であると考えられるようになったのである。これが「キリスト先在論」である。

 西暦325年に開かれたニケア公会議と、451年に開かれたカルケドンの公会議で、三位一体論とキリスト論に関するキリスト教の正式な見解がまとめられた。そしてこのニケア・カルケドン信条を受け入れるかどうかが、今日に至るまでキリスト教であるかどうかを見きわめる重要な試金石になっている。三位一体論を認めないユニテリアン主義者など、必ずしもこの枠に納まらないキリスト教も存在するが、キリスト教における「正統」の範囲を決定する重要な枠組みとなっていることは確かだ。このニケア・カルケドン信条においては、イエス・キリストは「真に神であり真に人である」とされている。これは宇宙の創造主であると同時に、一人の歴史的人物であるという意味である。

 したがってキリスト教神学においては、イエス・キリストは「神が人となられたお方」なのであって、いわゆる教祖というような次元の存在ではない。そのくらいにイエスの位置は高められている。ところが、信仰を持たない人や客観的な宗教学の立場からすれば、イエスはキリスト教の「教祖」であり、一つの宗教の創設者に過ぎない。彼が歴史的人物であったことを前提とするならば、教祖を神格化していることになるわけだ。この二つの立場には大きな隔たりがあり、信仰があるかないかによって互いに相容れない立場となる。ニケア・カルケドン信条のイエス・キリストは「真に神であり真に人である」という立場も、信仰を前提としない合理的な立場からは理解しがたいものである。

<家庭連合における文鮮明師の位置>

 家庭連合においては、文鮮明師を「再臨のメシヤ」であると信じている。したがって、文師はイエス・キリストと同等の立場であると理解されていることになる。しかし、家庭連合が既成のキリスト教神学と同様に教祖を神格化しているかと言えば、そうでもない。これは少し複雑な話になるが、その理由は家庭連合がニケア・カルケドン信条に代表されるような伝統的なキリスト教神学の三位一体論やキリスト論をその如くに受け入れているわけではないからである。

 統一神学は、ニケア・カルケドン信条に代表されるような伝統的なキリスト論の問題点は、神と人間との間の断絶を「存在論的なもの」としてとらえたことにあったとみている。そのため三位一体論もキリスト論も、「神か人か」という存在論的な論争にあけくれたために、結局は合理的な結論に至らなかったのである。「イエスは神か?人間か?」という問いに対して、統一神学は「イエスは人間だ」と明確に答える。それではイエスの神性を否定しているのかというとそうではなく、神性はもともとすべての人間に宿っているものであると主張するのである。「統一原理」によれば、もともと神と人間は親子の関係であり、ちょうど子が親に似るように、人間は神のごとき性質を宿すはずであった。しかしこれは人間が神そのものになるという意味ではない。神と人間はあくまで別々の存在であり、このこと自体は「断絶」ではない。人間でも親と子は別々の肉体と人格を持っている。そのことは別に問題ではなく、親子が愛し合っていないことが問題で、それを「断絶」と言うのだ。互いが信頼しあい愛しあっていれば、親子の断絶は存在しない。

 これと同様に、神と人間との間にはもともと埋めがたい断絶はなかった。しかし子としての人間は親である神を裏切り、堕落することによって両者の間に断絶が生じてしまった。これは存在論的な断絶ではなく、心情的な断絶である。メシヤはこの心情的な断絶を埋めるために来るのであるから、神である必要はない。むしろ人間の代表として罪を償い、神と人間を和解させる心情的な架け橋とならなければならない。メシヤのユニークな点は、神との間に断絶がなく、本当の親子の関係を結んだ人間であるという点だ。そのためには罪があってはいけない。すなわちメシヤは原罪のない「真の人間」でなければならないということだ。このように「統一原理」は従来の難解なキリスト論をすっきりと解決しているのである。

 以上のような意味で、家庭連合では文鮮明師御夫妻をメシヤ、再臨主、真の父母であると信じているのであり、宇宙の創造主であるとか、不死の存在であると信じているわけではない。文鮮明師は神から特別な使命をいただいた存在であるが、同時に我々と同じ生身の肉体を持った一人の人間であった。家庭連合の信徒たちは文鮮明師と多くの人間的な交わりを持ち、その人間的な魅力に引き付けられ、喜怒哀楽を共にした。その意味においても文師は、奥の院から信者たちを睥睨する「教祖様」ではなく、信徒たちにとっては親のような情的に近しい存在であったのである。

カテゴリー: 北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ パーマリンク