書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』73


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第73回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ライフトレーニングの次の段階としての「フォーデーズセミナー」(p.235-245)について説明している。前回はその説得力の数値的評価と、「イエス路程」の講義が受講生の感情を揺さぶるものであるという彼の主張を検証したが、今回はフォーデーズセミナーで朗読されるとされる「お父様の詩」と、「恨プリ」の概念に注目してみたい。

 櫻井氏によれば、多くの宗教は儀礼によって強い情動を誘発しているが、立派な大聖堂や荘厳な雰囲気を醸し出す儀礼が存在しない統一教会では聖なる雰囲気を出すのが難しいため、研修会の中では「お父様の詩」と呼ばれる文鮮明師の教説を示すときに、唯一の儀礼的空間が作られるのだという。このときにはセミナー室の明かりが消され、班長達がロウソクをもって並んでいる中で、「お父様の詩」が朗読されるのだという。この「お父様の詩」の全文はここでは掲載しないが、以下のURLで見ることができる。
http://www.glo.gr.jp/uta.pdf

 さて、この詩は櫻井氏の言うように「文鮮明の教説」(p.237)と呼べるものなのであろうか? この詩の出典はいずれの資料にも明記されておらず、これを一体誰が書いたのかは実は不明である。文鮮明師の語った内容であれば、通常は語った年月日が記載されていたり、マルスム選集の巻数や項数、講演文のタイトルなどが出典として記載されているはずだが、そうしたものが一切ないということは、文鮮明師が直接語ったものではなさそうである。文体や表現からしても文鮮明師の言葉とは考えられず、日本語としてあまりにこなれすぎているために、韓国語からの翻訳でもなさそうである。出所は日本に違いない。

 この「お父様の詩」と呼ばれる内容は、日本の統一教会の食口の誰かがなんらかの啓示かインスピレーションを受けて書いたものではないかと思われる。それはそれで一つの宗教的文学としての価値はあり、この詩を聞いて感動したり、原理の奥深さや神の心情を悟ったり、宗教的回心を体験したりすることはあるかも知れない。しかしそれでも、文鮮明師の語った言葉でないものを、そうであると語っていたとすれば、それは問題である。「誰かがお父様の心情を祈って尋ね求めた結果、与えられた啓示的な詩です」と紹介するのであれば、問題はないと思われる。

 しかしそうした性質上、この「お父様の詩」は統一教会における権威ある文書となることはできないし、この詩の朗読は統一教会の正式な儀礼となることはできないのである。これはある特定の時代の、ある特定の地域の研修会において、現場で用いられていた一種の宗教的文学なのであって、それを読み上げる行為も、統一教会の儀礼というよりは研修会のイベントの一つといった方が良いであろう。私自身、伝道されたときに修練会でこの詩が朗読されるのを聞いたことはなかったし、伝道する側に回ってもこれを朗読したことは一度もなかった。

 統一教会の儀礼と呼べるものには、もっと普遍的で公式的なものがたくさんあるのだから、櫻井氏も宗教学者であればそうしたものをもっと研究すべきであろう。主要なものだけを列挙しても、①毎週日曜日の礼拝、②安侍日、月初め、名節、記念日などに行う敬礼式、③家庭盟誓の唱和、④祝福式、⑤聖和式、聖和祝祭、⑥聖別式や奉献式、⑦清平における役事など、これら一つひとつの儀礼的意味を記述しただけでも大論文になるはずである。こうした教会の公式的儀礼には一切触れることなく、「お父様の詩」などという公認されていない研修会の行事を「儀礼」と呼ぶ櫻井氏の記述は、宗教学者として最低限の調査さえしていないことを明らかにするものである。これも「青春を返せ」裁判の原告側の資料にのみ依存しているために起こる根本的な理解不足であると言えるだろう。

 さて、櫻井氏はこのイエス路程の解説の中で、統一教会の救済観を韓国の「恨プリ」と関連付けて解説している。それは以下のような記述である。
「文鮮明は説教集の中で、神というのは一人子を亡くされた悲しみの恨を深く心にとどめた悲しみの神様であり、人間の生の目的とは神様の恨を解くことなのだと何度も繰り返す。日本の信者は韓国風の恨プリ(恨を解く)の儀礼を知らないために神の無念さに心を痛めるだけだが、韓国の信者達はこれほどの恨を解かないでおくことができようかと考えたに違いない。冷静に考えれば、全知全能の神でも恨みを抱くのだろうかと首を傾けざるをえないが、旧約聖書には嫉む神というイスラエル民族の神観が出てくるので、韓国に土着化したキリスト教において神様が恨を抱き恨プリを求めていると文鮮明と彼の弟子達が考えたとしても自然なことだ。」(p.238)

 櫻井氏は「恨プリ」という韓国の土着の宗教的概念によって聖書を解釈した統一教会の救済観をやや批判的に解説しているが、こうした理解の仕方自体は神学的・宗教学的には間違いではなく、かなり本質的なところをとらえていると評価してよいであろう。「恨を抱いた神様」というのは統一教会の独特な神観の一つであり、統一教会の信徒の信仰生活を動機づけるものとして大きな役割を果たしているからである。この問題に関する文献としては、古田富建の「『恨』と統一教」という論文がある。以下のサイトで全文を読むことができるので、関心のある方はご一読いただくとして、ここではその要点を簡単にまとめることにする。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/36069/1/rel027004.pdf

 「恨」と言えば、韓国人にとっては民族が持つ固有の情緒や美意識として理解されており、韓民族の代表的な民族性の一つとして、日本でもよく紹介される言葉である。それはしばしば日本や中国の「怨」とは違ったものと説明され、その中心的要素は「悲哀」の感情であるとされる。これはもともとは巫俗(韓国のシャーマニズム)の用語であり、「死者のやるせない思いや、やり残したこと」を意味し、「恨プリ」はその恨みを解くこと、すなわち「恨み解き」を意味する鎮魂儀礼の一つであった。この概念は韓国の宗教史に大きな影響を与えているが、その中でも統一教会の教義は「恨」を一つのキーワードにしているという。すなわち、神やイエスは「恨」を抱いており、それを解くことが教義の核心となっているというのである。

 それでは神の「恨」とは何であろうか? 統一教会では、神を人間とまったく変わらない喜怒哀楽を感じる存在としてとらえ、人間の堕落のゆえに神はこれまで悲哀の感情に支配されてきたとする。神と人は元来「親子の関係」であったのに、堕落によって「親子でない関係」になったことが神の哀しみであり、元の「親子の関係」に戻りたいと願い続けてきた。神は「あるまじき姿」から「あるべき姿」へと戻りたいという切なる願望を抱いており、それが果たされない神は「解くべき恨」を抱えた存在なのである。したがって人類歴史は、神の理想を成就するための「神の恨プリ」の歴史として理解される。統一教会の教義における最終目的は、悲しい歴史の清算と「恨の神」の解放である。

 一方、「イエスの恨」は、「結婚して神の血統を残すべき」であったのに、家族やイスラエル民族の迫害によって、「結婚できずに(血統を残せずに)死んだ」という「恨」である。こうしたイエス像は、韓国の宗教伝統を背景として理解できるという。韓国の伝統社会は「儒教と巫俗の二重構造」として語られることが多い。すなわち、国家運営から民衆の倫理道徳に至るまで、表向きの価値観は儒教が支配していたが、その深層部には古 来からの巫俗の伝統が横たわっており、儒教とは相互補完的な関係にあったという。儒教的な倫理によれば、「子を残さず死んだ者」は祭祀を受けられず怨霊となるのであるが、一方で巫俗が儒教的価値観では引き受けられない死者を一手に引き受けて、巫俗式の鎮魂祭や死後結婚を行ってきた。こうした宗教伝統を背景としてイエスを見るとき、そもそも結婚して血統を残すことを理想とする儒教社会においては、独身を貫いて死んだイエスの生涯は望ましいものではない。そして「巫俗」の観点から見ると、イエスは未婚で哀れな死を迎えた若者であり、その恨を解くための「鎮魂の対象者」となるのである。

 このように、「神の恨プリ」「イエスの恨プリ」として歴史をとらえる統一教会の教説は、キリスト教神学の中では特異なものであるが、韓国の宗教的伝統を背景として理解すると、ごく自然な発想であることが理解できるであろう。しかし、「全知全能の神」という西洋的で合理的な神観からは、こうした発想はまず出てこないだろう。日本人にとっては、「統一原理」の救済史観は今すぐにでも人類を救いたいという切々たる神の心情が描かれており、一種の浪速節的な世界があるので理解しやすいのではないだろうか。そしてこれは、統一教会信者の「救済観」にも大きな影響を与えている。一般のキリスト教においては神は全知全能の存在として、罪深い人間を一方的に救ってくれるものと捉えているが、統一教会においてはむしろ恨を抱えた可哀想な神様を解放して差し上げたい、慰めて差し上げたいという心情が、信仰の動機となることがあるのである。こうした神観や救済観は、統一教会が持つ独創性の一つの根拠となっている。

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