書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』71


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第71回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ツーデーズセミナーの次の段階としての「5 ライフトレーニング」(p.233-235)について説明している。これは簡単に言えば、学校帰りや仕事帰りに1日4時間余りの教育を受けるために、二週間から一カ月間通いで行うトレーニングのことである。講義内容はビデオセンターやツーデーズで聞いた内容を繰り返したうえで、それを実践する内容が含まれてくるという。

 こうした合宿のセミナーと通いのトレーニングの組み合わせによる教育は、日本における青年伝道の特徴のようである。アイリーン・バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」に出てくる西洋の伝道プロセス、特にカリフォルニアの事例に比べると、日本における伝道活動はじっくりと長い時間をかけて伝道するのが特徴であり、しかも世俗の社会における勉強や仕事を継続しながら教育を受けるため、受講者は日々の時間の大半をどっぷりと宗教的環境に浸かっているわけではない。

 西洋において、統一教会への回心が「洗脳」や「マインド・コントロール」という非難を浴びた理由の一つに、外部の世界との接触や情報が制限された環境の中で、極めて短期間のうちに入会しているという点が指摘された。つまり、大事な決断をさせるのに十分な時間と情報を与えていないのではないかということだ。とくに、カリフォルニアの「オークランド・ファミリー」と呼ばれる運動の伝道システムは、2日修、7日修、21日修と、比較的短期間に集中的に修練会に参加させて、一気に教会員にしてしまうというスタイルだったようでだ。そこでは、大部分のメンバーが運動に出会って2~3週間以内に入会しており、しかもその間は修練会にどっぷりと浸かっていたというのだから、はた目には「洗脳」と映ったのかもしれない。

 時代によって異なると思うが、日本ではこれほど短期間に伝道されるケースはまずないだろう。1983年に大学一年で伝道された私の場合、霊の親(紹介者のこと)に出会ったのが5月で、しばらく週一回のペースでビデオを聴講し、7月に7日修、8月に新人研、9月には入教というCARPの新入生伝道を絵に描いたような「最短コース」であったが、それでも4カ月はかかっている。櫻井氏の調査対象となった元信者たちの場合、伝道から入信に至るまでの期間は4ヶ月が突出して多く、これもカリフォルニアに比べれば十分に長いとも言えるし、社会人であれば職場に通いながらのトレーニングであるため、外部の世界との接触が完全に分断されているわけではないという意味では、「ゆるい」とさえ言えるのではないだろうか?

 ライフトレーニングにおいては、一般的に受講生たちは昼間は学校や職場などに出かけて通常の社会生活を行っており、夜だけ講義による研修を受けたり、信仰生活の初歩的な手ほどきを受けるという生活をする。一日のうちで宗教的理念に触れたり宗教的な環境下で生活するのは数時間であり、言ってみれば世俗世界と聖なる世界を行ったり来たりするような環境のもとで教育がなされることになる。

 こうした中で受講生は、櫻井氏が指摘するように「再臨論」や「主の路程」に関する講義を受けるようになる。彼らの多くが、この時点でメシヤが文鮮明師であることと、自分が学んできた内容が統一教会の教えであることを知るようになる。これを信者たちは「主を証される」とか、「主の証しを受ける」と言ってきた。泊まり込みのセミナーに比べるならば、研修の途中でライフトレーニングを離脱しようとすることはより容易である上に、これまで日常生活を送ってきた一般社会との接触が常に存在するために、世俗的な誘惑がより働きやすい環境下にある。したがって、ライフトレーニングにおいて「主の証し」を受けるときの受講生の心理状態は、泊りこみの研修会よりもはるかに冷静で客観的な状態にあると推察され、世俗的情報と宗教的情報の両者が拮抗する環境下で、文鮮明師や統一運動に関する情報を提供されることになる。しかも、ライフトレーニングの会場となる施設は通常駅の近くなどの便利な場所に位置しているため、自分が関わっている団体の背景を知った時点でそこを離脱することは、その意思さえあれば非常に簡単である。

 ライフトレーニングの参加者のうち、どの程度の割合の者が次の段階である「フォーデーズ」に参加することになるかは確たるデータがないが、全員が参加するわけではないことは「青春を返せ」裁判の原告たちも認めている。拙著『統一教会の検証』(光言社)のデータによれば、二日間の修練会に参加した者14383人のうち、四日間の修練会に参加した者は8258名であるから、この間の離脱率は42.6%ということになる。このことは、ライフトレーニングを前後して少なくともツーデーズ参加者の40%が離脱することを意味している。それほど効率が良いわけではないのである。

 私自身は、「東京第7地区」において、壮年壮婦に対するライフトレーニングの講師も担当していた。これはツーデーズを受講した者の中で、さらに深く学びたいという意思のある者に対して、週に2回くらいづつビデオセンターのある施設に通ってきてもらい、一連の講義を聞くというものである。私の行っていたライフトレーニングは、①緒論・アダム家庭、②ノア・アブラハム家庭、③メシヤの降臨とその再臨の目的、④再臨論の五コマの講義からなっており、受講生は各々のスケジュールが空いている時間に昼間ビデオセンターを訪れ、講義を受けたら感想文を書き、カウンセラーと話をして帰宅するということを繰り返す。仕事を持っている婦人の場合には夕方6時以降に講義することもあった。これも合宿ではなく通いの講義であるが、教育効果はさほど変わらない。本質をつかむ人は、普段の生活の中で通って講義を聞いても、よく内容を理解した。ライフトレーニングを通過して、最後の再臨論の講義を聞いた者は、その時点でメシヤが文鮮明師であることを明かされることになる。その意味では、青年のライフトレーニングも、壮年壮婦のライフトレーニングも講義の詳しさが違うだけで、教育内容は同じである。

 さて、櫻井氏はライフトレーニングの教育内容について批判的に記述しているので、その内容について検証しておきたい。

「受講生には歴史的・摂理的必然ということが先行して教えられているために、なぜ文鮮明がメシヤなのかと、逆に彼から歴史をたどる発想は生まれてこない。」(p.233)
「どんなことがあってもメシヤを受け入れなければならないのだという心構えが重視され、まさにその心的態度をビデオ学習やツーデーズセミナー、ライフトレーニングという三段階の研修を通して養成しようとするのである。」「日本の統一教会は、信じがたさという弱点を強みにする論理を強調する。」(p.234)
「ここで再臨主に関わる一般的な理解の問題が個人の信仰の問題に置き換えられていることを確認しておきたい。・・・文鮮明を明かすまで、人間の不信仰による摂理の失敗、人間と世界に関わる諸問題は全て不信仰が原因で生じたということを繰り返し説かれている。そういう認識の枠組みがある程度できあがった段階で文鮮明をメシヤと明かされると、信仰的によく生きることを考え始めた受講生は受け入れようかなという心境になる。」(p.235)

 統一教会の信者たちが行ってきた伝道の方法において、最初から文鮮明師をメシヤであるとか教会の創設者として紹介するのではなく、教理を説明する中で「メシヤ」という抽象概念を理解してもらい、それを受け入れ易いように一定の教育を施した土台の上で、最後に「再臨のメシヤは文鮮明師である」という結論を告げていたことは事実であろう。しかし、宗教の世界においては、「奥義」や「秘儀」などと呼ばれる奥深い真理を伝える際に、最初からすべての情報を開示するのではなく、段階的に情報を開示しながら、求道者にその真理を受け止める心構えができたときに初めて秘密の内容を伝えるということがある。そうした教え方も「信教の自由」の一部であり、世俗の論理で「最初から全情報を開示すべきだ」と強要できるものではないと私は考える。

 櫻井氏は、「再臨主に関わる一般的な理解の問題が個人の信仰の問題に置き換えられている」と批判するが、メシヤを受け入れることができなかったという過去の歴史の教訓を、個人の信仰のあり方と関連付けるのは当然のことであり、それを通して過去の物語が私にとって「生きた物語」となるのである。キリスト教の礼拝において語られる説教は、そのほとんどが聖書の物語を単なる過去の出来事として教えるのではなく、自分がその時代、その場所に生きていたらどう振舞ったであろうかという「実存的問題」として教えようとする。統一教会の信徒たちが再臨主を受け入れていく際にも、これと同様の理解がなされていると言える。

 にもかかわらず、そうした教育によって全ての人が文鮮明師を再臨主として受け入れるようになるわけではなく、むしろ受け入れない人の方が多いという事実は、こうした教育が必ずしも奏功するわけではないことを示している。櫻井氏の言うように、文鮮明師をメシヤとして受け止める「認識の枠組み」を受講者の中に形成しようという努力がなされたとしても、願った通りの認識を受講者がしてくれるとは限らないのである。こうした教育によって、「なぜ文鮮明がメシヤなのか」という批判的な思考をする能力が受講生から剥奪されるわけではなく、そのように考えて結論を受け入れない受講生も多数いるのである。最終的には、受講者が文鮮明師をメシヤとして受け入れるかどうかは、もともとその人に宗教的な素養があるかないかによって決定されると言っていいだろう。

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