ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳17


第3章 性に関する価値観:婚前の性行為と同性愛(1)

 統一運動の倫理的価値観、とりわけ性に関する価値観はその神学から導かれ、またそれによって正当性を与えられる。伝統的なキリスト教道徳の全般的な遵守に加えて、グループの良き生活に対するアプローチは、道徳的行動の二つの基本的特徴を強調する。すなわち、個人が「何か」をする動機と、「何か」をした結果である。ほとんどどんな場合でも、「何か」あるいは特定の道徳的行為は以下の二つの基準によって(運動の教えにおいてだけでなく、メンバーの視点によっても)評価される。(1)「何か」をした動機または理由は、神を中心としているか?(2)「何か」をした結果や帰結は、地上天国の実現に貢献しそうであるか。(注1)これらの基準に合致する行動は善と判断される一方で、合致しない行動は悪とみなされる。神学的な言葉で言えば、「個人が創造目的を成就するのを助けるものが善であり、その反対の方向に向かうものが悪である。」(注2)運動の著名な神学者である金永雲のこの見解は、著者とメンバーとの議論の中ではっきりと述べられるか、もしくは暗示されたのであった。

 道徳的価値に対するこのアプローチが含意していることの一つは、行動そのものは良くも悪くもないということである。すべては個人の「目的」によって決まるのであり、この言葉は動機と意図された結果の両方を含んでいる。したがって、同じ行為でもその目的が神を中心としているか否かによって道徳的に善にも悪にもなり得るのである。運動の神学者たちは、彼らの視点が状況倫理に似ているということを否定するものの、同時に「過渡期(現代の世界)においては、純粋な善というものはしばしば決定不可能であり、実践することは非常に難しい」(注3)ということは認識している。

 実践のレベルにおいては、倫理に対するこのアプローチは、布教活動や資金調達の行為において機能していた悪名高い「天的詐欺」の教義に見られるように、時として運動の外の世界に対する関係を曖昧で脆弱なものとした。文師は、「もしあなたが人を利用しようとして嘘をついたならば、それは罪になります。しかし、彼に良いことをしようとして嘘をついたのであれば、それは罪ではありません。」(注4)と言ったとされている。

 この発言に含意されている倫理的相対主義は、グループの経済活動および伝道活動において詐欺的実践を助長したことは疑いがないと思われる。運動の本部は不実表示に対して公式に遺憾の意を表し、「・・・資金調達活動における『情報開示』についてのメンバーに対する一連の明確な指示」(注5)を発表したとはいえ、神を中心とする動機にこだわる運動の倫理的立場が、一般的に意思決定におけるある程度の融通性を許容するのではないかという若干の疑いが残る。

 統一運動の倫理的価値観に関する上記の議論は、この運動における性に関する価値観には直接当てはまらない。性はグループの堕落の教義のまさに中心に位置するものであり、メンバーたちに主として義務論的指向性をもった絶対主義として認識される傾向にある。例えば、中央の指導者たちは資金調達活動における天的詐欺の使用を遺憾に思うかもしれないが、各地方のセンターが持っている相対的自律性と、原理講論に表現された価値観、および上記の引用された文師の言葉の故に、草の根レベルにおいてはこの実践を大目に見ることもあり得るかもしれない。同じ中央の指導者たちが、そのような個人の自由を性に関する価値観の領域において大目に見るということはあり得ないのである。以下に記述するように、統一運動の性倫理においては絶対主義が支配的なのである。

 性に関する特定の価値観を調べる前に、グループの道徳的理想全般に対するアプローチの「精神」をとらえる上で役に立つ、三つの基本的なポイントを認識しておくことは重要である。第一に、運動の道徳的価値観から導き出される理想が、すべてのメンバーによって同じように理解されているわけではないということは明白である。あるメンバーが「西洋的アプローチ」と呼ぶものをとる者がいる。彼らは理想を、無条件に縛り付けるものであるとみなす。もしこれらの個人が特定の理想を実行しなければ、彼らはフラストレーションや罪悪感を経験しがちである。ほとんどのアメリカ人のメンバーがおそらくこのケースであろう。一方で、「東洋的アプローチ」をとる者もいる。彼らは理想を、拘束するものではあるが、特定の個人に対して現実的に何が期待できるかを意識することによって、彼らの熱望を修正するものでもあるとみなすのである。文師(およびおそらく極東出身のメンバーたち)はこの後者のアプローチをとるが、アメリカの信者たちは「お父様」が何を意図しているのかを常に理解できるとは限らず、その結果として、ときには自分たちが運動の理想を実現できないことに困惑したりするのである。

 第二に、運動の道徳的価値観は書面形式で明記されているわけではなく、メンバーがなすべきこととしてはいけないことを規定した公式の規則は存在しない。(注7)あるメンバーはこのことを次のように表現した:「それは、人々が統一原理を聞いたときに、彼らは高い生活基準で生きるべきだということを知るというだけのことだ。」(注8)社会学的な視点からは、このことは新しいメンバーはグループへの参加を通して、ある道徳的期待を「つかもうとする」ときに、価値観を学ぶということを意味している。非公式的な道徳的指導が、そしてより重要なのは、年長の兄弟姉妹の実際の行動が、初心者が見習うための規範と役割モデルを提供するのである。

 最後に、運動の中には、全メンバーが忠実に守ることを期待されている規定された行動と、個人の側で判断可能な選択の余地を残した、望ましい行動という区別があるように思われる。(注9)婚前の純潔は全メンバーに絶対的に要求されており、規定された行動の主要な例である。一方で、結婚したカップルは避妊を行わないように奨励されてはいるが、彼らには家族計画の問題に関しては自分自身で決定する自由がある。これが望ましい行動の例である。

(注1)このアプローチのより簡潔な表現は、『統一原理解説』、pp.50-51を参照のこと。
(注2)『統一神学とキリスト教思想』、 p .174.
(注3)前掲書、p. 174 .
(注4)B・キム「回心と信仰の維持:統一教会と文鮮明の事例」(1976年の宗教科学研究学会の年次集会に提出された論文)、p.22.
(注5)デビッド・G・ブロムリーとアンソン・D・シュウプ・Jr『新宗教の資金調達』、宗教科学研究誌 19 (3, 1980):p.233。
(注6)インタビュー:ショー夫妻
(注7)このことは、「キリスト共同組織」という根本主義グループの性的なふるまいに対するアプローチとは著しい対照をなしている。そこでは、「肉欲の罪を防ぐために、組織は兄弟姉妹間の相互作用を管理するための明示的なルールを設定した。・・・新しい受講者が訓練期間のために「ランド」(キリスト共同組織の本拠地)に来るとき、・・・牧師はオリエンテーションの時間に彼らに対して、男女の相互作用を管理する非常に具体的な訓令を読むのである。」リチャードソン、スチュワート、シモンズ、「組織化された奇跡」、pp.147-148。
(注8)インタビュー:ショー夫妻
(注9)「規定された活動とは、個人がしなければならない(あるいはしてはならない)ことである。規定を破れば罰を受けるようになる。・・・奨励された活動を行えば個人は報酬を与えられるが、一般的にはそれを行わないことによって罰せられることはない。」(バーナード・ファーバー、『ファミリー:組織と相互作用』[サンフランシスコ:チャンドラー出版社、1964]pp.41-42。)

カテゴリー: ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」 パーマリンク