書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』68


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第68回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ビデオセンターの次の段階としての「4 ツーデーズセミナー」(p.229-33)について説明している。櫻井は例によって札幌「青春を返せ」裁判の資料から、ツーデーズセミナーのプログラムを紹介する。このプログラム自体は、実態からそれほどかけ離れたものとは思われない。要するに金曜日の夜に集まって、土日の二日間でみっちり講義を受けるという二泊三日の研修である。そこでは、統一原理の内容に関する生の講義を受けるということ以外に、何か特別なことが行われるわけではない。

 櫻井氏はあたかも自分が見聞きしたかのような筆致でツーデーズセミナーについて描写しているが、実際には彼は参与観察を行っていないので、それはすべて裁判資料で述べられていることを再構成しているに過ぎない。彼自身が見聞きしたファーストハンドな情報ではなく、あくまで元信者の目を通して観察されたツーデーズセミナーの描写をトレースしているだけである。そこには事実の客観的な描写と、元信者たちの主観的な感想と、裁判において損害賠償を請求するための戦略的に変形された描写とが入り混じっている。したがって、櫻井氏の記述には「裁判で争っている一方当事者の主張」という以上の資料的価値はないが、彼の指摘している具体的なポイントに関して批判を試みることにする。
「班ごとに統一教会員のスタッフが班長として配属され、数名の班員の受講に関わる一切の雑務を担う。必要事項はすべて班長を通すように言われ、勝手な判断・行動は厳に禁じられている。セミナー会場には新聞・テレビ・ラジオ等外部情報を摂取するメディアは一切置かれていない。1980年代は外へ出ての公衆電話も禁止だった。今は携帯電話を予め班長が預る。班長は班員に常に目を配り、班員同士が無駄話をしないように注意している。」(p.230)

 これは「マインド・コントロール理論」でいうところの「情報コントロール」が行われているという主張にほぼ等しい。要するに密閉された空間で情報を制限された中で、正常な判断力を減退させた状態で回心に導いているということが言いたいのであろう。しかし、このような措置を行う動機や目的、さらにそれが実際にどの程度機能しているかに関しては、他方当事者の立場や客観的な第三者の観察なども含めて総合的に捉える必要がある。

 まず、研修会に班長と呼ばれるスタッフがいること自体は、行事を秩序あるものとしてスムーズに進行させるうえで必要なことであり、非難に値しないことは明らかであろう。彼らは受講生が講義の内容をよく理解できるようにサポートする目的でそこにいるのであり、愛と奉仕の精神で受講生に尽くすことを信条としている。そうした班長の姿に感動して憧れる受講生も実際には多くいるのである。

 新聞やテレビなどのメディアがないことや、電話連絡などの制限は、受講生が講義の内容に集中するための措置であって、本人が合意の上でこれを行っているのであれば何の問題もない。ちなみに私の娘が通っている私立の女子高は、携帯電話の所有は禁止されていないが、それを学校に持ってくることは禁止されているし、万が一持ってきた場合には登校中は学校に預けなければならない。授業中に生徒がスマホをいじることを許したら、教育など成り立たないからである。一般の企業における会議でも、重要な会議の最中に他の電話に出たりスマホをいじったりするのはルール違反やマナー違反になり得るので、電源を切るように指示することはあるだろう。一つのことに集中するために一定期間他の情報をシャットアウトすることは、一般社会でも行われていることである。

 とりわけ宗教の世界では、回心や悟りといった特別な体験をするために、世俗の文化をシャットアウトするということが行われてきた。アメリカ版の「青春を返せ」裁判とも言える「モルコ・リール」対「統一教会」の訴訟において1987年に米国キリスト教協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した「法廷助言書」は、この点に関して以下のように述べている:
「入門者を通常の文化から引き離して、妨げられずに宗教的事柄に精神を集中できる場所に引きこもらせることの優れた効果を認めない宗教を見いだすことはまずできない。もしシンガー博士が正しいとすれば、おそらく数百万の宗教的回心は無効であり、そうした回心者の信仰と生活は詐欺の結果であり、無駄であったということになる。僧院や修道院がすぐに思い浮かぶが、そのほかカトリック教会経営学校、クリスチャン・スクールなどはカトリック教会や他の教会の信仰、即ち世俗文化からの隔離は『周囲の文化を支配するシンボルとは異なった種類の聖なるシンボルを中心にして生活を立て直すことを助ける』という信仰を反映している。神との一体化を一心不乱にめざすための質素で純潔な生活という理想像を代表したものである。」
「19世紀の米国西部の開拓地では、参加者の回心のみを目的にした『キャンプ集会』が開かれた。その集会はキャンプの設置場所から説教のやり方、参加者間に許されている相互交際の内容に至るまで、すべて回心を目的に計算されたものであった(ブルース『みんなハレルヤを歌った』)。これは、未回心者が、通常の環境を離れ、宗教団体によって維持され統制(コントロール)されている別の環境に行く多くの具体例の一つにすぎない。別の環境で日常の生活の影響を忘れて、信仰を受け入れることができるように組織立てられた経験を他の参加者と共にすることができるということである。」
「多くの宗教で、隠遁生活が特別な地位を占めてきた。仏教では、僧侶は宗教の要諦を維持保存するものとされてきた。世俗の中では一般人が救済を達成することが事実上できないと考えられたからである。米国では隠遁する修道女は信仰に生涯をささげ、清貧、純潔、従順の徳目を守り、聖バジル、聖アウグスチヌス、聖ベネディクト、アシジの聖フランシス、聖イグナチオなどにより幾世紀も前に決められた修道院規律を守り、詳細に生活が規制されている献身的修道院生活を送ってきた(レクソー『僧院生活』)。 」(以上、「法廷助言書」の内容は増田善彦『「マインドコントロール理論」ーその虚構の正体』より抜粋)

 次に、こうした情報のコントロールをたとえ主催者側が意図していたとしても、それを実際に徹底させることができたかどうかは別問題であることを押さえておかなければならない。この辺は、実際に参与観察を行ったアイリーン・バーカー博士がかなり詳細な報告をしている。彼女は研修会の代表的な例として「イギリスの終末修練会」と「カリフォルニアのキャンプK」の二つを挙げているが、前者での体験は以下のようなものである。
「食事と散歩の間、ゲストたちは個々のムーニーたちの証しを聞く。それは、ムーニーたちが最初にどのようにして運動と出会ったのか、それが彼の人生をどのように変えたのか、そして既に成し遂げられたことを見れば如何に驚くべきことであるかを伝える物語で、語るたびごとに洗練されていく。ゲストたちは講義の内容についてどう思うかを親しく尋ねられる。ゲスト同志がお互いに話さないようにするための露骨な試みはなされないし、実際に彼らの多くが内輪でおしゃべりをしている。それは裏口の外で短時間たばこを吸いながらなされることもある。ただし、比較的少人数であることと、ゲストに対してメンバーの比率が高いということ(通常は少なくとも1対1)は、ムーニーが会話の大部分を占める傾向があるということを意味している。」

 カリフォルニアのキャンプKでの様子は以下の通りである。
「プログラムの厳しい統制にもかかわらず(あるいは、それ故にかもしれないが)、全体的な雰囲気は、個々のゲストの積極的な参加を促しているように見える。通常は会話に積極的に参加することが称賛され、ゲストの発言に対してグループで拍手喝采する場合もある。ゲストがムーニーのいないところで情報交換することは不可能ではないが、容易なことではない。少なくとも一人のメンバー(異性であるかもしれないし、そうでないかもしれない)がそれぞれゲストを見るようにとの役割を与えられており、キャンプKでのムーニーたちは、他のどこよりもこの仕事に熱心のようだった。男性の『相棒』が女性のゲストの手洗いにまで付いていくことはないが、休憩時間には通常そこに列ができるので、一人でトイレにも行けないといったよく聞く不満にも一理ある。私の体験では、トイレではそれぞれの人がノートをつけるだけのプライバシーが十分守られていた。ただし、トイレが親密な会話をするための理想的な場所だとはとうてい言えないだろう。私が私的な意見交換を他のゲストとできたのは、ゲームで早い段階で脱落したときや、『消灯』の後にささやくように打ち明け話をしたときだった。」(『ムーニーの成り立ち』第7章 環境支配、欺瞞、「愛の爆撃」より抜粋)

 こうした状況は日本でも同じである、研修会の主催者側にはできるだけ班員同士の「横的な」授受作用を妨げて講義の内容に集中させたいという意図があったとしても、それを完全に防ぐことは不可能であり、強制力はないということである。現実は無駄話をする研修生はたくさんいるのである。紹介者やビデオセンターのスタッフを信頼し、自分が知りたいことを学ぼうという意識を持って来た者は、自然と研修会のスタッフの指示に素直に従うことになる。しかし、さして強い動機もないのに来てしまった人は、横的な無駄話をしたがる傾向にある。研修会での生活を「コントロールされたもの」として不快に感じるかどうかは、こうしたゲストが持つ個性によって異なると言えるであろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク