ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳15


第2章(8)

 ちょうど体が神を中心とする心によって主管されるように、心もまた活動的で健康的な体からの刺激を必要とする。したがって、心の復帰は、一部には体の復帰に依存している。神の前に実現すべき理想としての心と体の相互依存関係は、以下の原理講論の言葉にその表現を見いだすことができる。
「心があって初めて完全な人間となり得るように、喜びにおいても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。」(注73)

 イエスの生涯と使命は、統一教会の復帰の教義において重要な役割を持っている。旧約時代を通して、神はイスラエルの子らが地上に神の国を建設するであろうメシヤを迎える準備をするよう、彼らを通して働かれた。初臨の主でありメシヤであるイエスは、「肉においても霊においても完全な人」(注74)であり、罪によって長らく遅れていた創造目的の成就のために、この世に来た。創造理想を完成した人間として、イエスの使命は「人類を新たに生み直してくださる真の父母」となることにあった。(注75)十字架は神の計画の一部であったという伝統的なキリスト教の考えを否定し、原理講論はイエスの死はユダヤ民族の無知と不信の結果であったと主張する。もしイエスが生を全うしていたならば、彼は結婚して(第二祝福の実現)、最終的には神の主管を全世界に拡大していたであろう(第三祝福の実現)。
「・・・その新しいアダムは、エバの位置に立つ女性と一つになり、神の祝福を受けて結婚し、神の真の家庭の核をなす子供を育てるべきであった――すなわち、人類始祖がサタンを中心とするやり方でなしたことを、神を中心とするやり方で成就するということである。その時点から、第二のアダムであるメシヤと、復帰されたエバとしてのその花嫁は、第二のエデンの園を実現するために働く意思のある人々の協力を得て、全被造物をその原初の状態へと復帰する段階に進むことができたはずであった。」(注77)

 イエスは個人としては失敗しなかったが、彼の使命は部分的にしか全うされなかった。それは彼の早すぎる死により、彼が「霊的救い」のみをもたらし、「肉的救い」を確保することができなかったためである。原理講論によれば、イエスは
「・・・堕落人間を霊肉共に救うために、彼が人間として来られたので、彼を信じて霊肉共に彼と一体となったならば、堕落人間も霊肉共に救いを受けたに違いないからである。ところが、ユダヤ人たちがイエスを信じないで、彼を十字架につけたので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、ついに殺害されたのである。そのため肉身にサタンの侵入を受けたイエスを信じて、彼と一体となった信徒の肉身も、同じようにサタンの侵入を受けるようになったのである。」(注78)

 イエスの死の基台の上に、クリスチャンたちは神との純粋な霊的関係の喜びを知っており、死んだときには霊界においてイエスと同じ場所が保証されるかもしれない。しかし、
「アダム以来の血統的原罪は清算することができず、いくら誠実によく信じる信徒であっても、彼に原罪がそのまま残るようになり、また、原罪のある子女を生むようになるのである。我々が信仰生活において、肉身の苦行をしなければならないのは、原罪が残っているところから、絶え間なく肉身を通じて入ってくるサタン侵入の条件を防ぐためである」(注79)

 イエスの復活が堕落人間に対する肉的救いをもたらしたと考えるかも知れないが、これは当てはまらない。なぜなら原理講論によれば、神がイエスを死から復活させたという新約聖書の記述は文字通りにとられるべきではなく、むしろそれは霊的救いの象徴なのである:「復活は人間が・・・サタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。」(注80)したがって、肉的救いはイエスによって実現されずに残されたのであり、「再臨して初めて、霊肉合わせて、救いの摂理の目的を完遂され・・・地上天国を復帰するようになる」(注81)と言われている。

 再臨主の到来は未来の希望ではなく今日の現実である。この復帰摂理におけるクライマックスの役割を果たす神が選んだ人物は、1917年から1930年の間に韓国で生まれた。(注82)第三アダムの使命は、基本的に第二アダムの使命と同じである。彼の活動の歴史的背景は、一方でより好ましいものである。それは神が彼の再臨のために世界を準備するために2000年間働いてきたからである。他方では、それはより危機的である。なぜならサタンの霊感を受けた道徳的腐敗や共産主義の挑戦が、終末における神の最終的勝利の土台を崩す恐れがあるからである。再臨主はイエスの果たし得なかった使命を完成させるであろう。彼は結婚して善なる子女を生み出すであろう。彼はすべてのものを統一し、神の永遠なる統治を地上に実現するであろう。彼の仕事――そしてある意味で統一教会の救済論の中心――は、原理講論の以下の言葉に適切に要約されている:
「ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。」(注83)

 運動のメンバーから受けた洞察と提案に基づいて私が構築した、統一神学に関するこの記述的説明に照らして、私は性と結婚がこの運動の世界観(Weltadschauung)の統合的次元であるという結論を下す。創造、堕落、および復帰はすべて、性と結婚の存在論的意義を包含する様式で着想されている。その結婚は永遠であり、それによって全人類が天国に入る「祝福」なのである。「独りで天国にはいる者はいない」という、運動の中でよく知られた格言は核心を突いている。

(注73)『原理講論』、p.5
(注74)前掲書、p.60。統一神学のキリスト論のより完全な解説としては、金『統一神学』第4章をみよ。
(注75)前掲書、p.210
(注76)前掲書、p.145
(注77)金『統一神学』、p.103
(注78)『原理講論』、pp.147-148
(注79)前掲書、p.148。このように、統一神学がウィリアム・グラハム・コール(『キリスト教における性と精神分析学』[ニューヨーク:オックスフォード大学出版]、pp.3-65)やウィリアム・フィリップス(『イエスは結婚していたか?』[ニューヨーク:ハーパー・アンド・ロー、1970年]、pp.120-163)などの学者の見解に反して、魂と肉体の二分法を、後世のヘレニズム的二元論が教父たちに影響を与えた結果であると考えるのではなく、キリスト教の救済論に初めから内在していた要素であると考えていることは明らかである。
(注80)前掲書、p.170
(注81)前掲書、p.113
(注82)『統一原理概説』、p.207
(注83)『原理講論』、p.218

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