書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』178


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第178回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。先回から「三 現役信者の信仰生活――A郡の信者を中心に」の内容に入った。これは中西氏のフィールドワークによる調査結果を紹介したものであり、彼女の研究の中では最も具体的でリアリティーのある部分だ。彼女が韓国で出会った日本人女性の信仰生活の様子は、一言でいえば「普通」だった。韓国の統一教会は、普通のプロテスタント教会と大差ないというのが中西氏の観察の要点である。今回はその続きを分析する。
「教会の代表は牧師である。信者が牧師を呼ぶときには『モクサニム(牧師様)』、牧師の妻を呼ぶときは『サモニム(師母様)』である。日本の統一教会では教会の代表は教会長だが、韓国では韓国プロテスタント教会と同じ呼称で呼んでいる。」(p.472)

 これはおそらく1980年代までは正しい描写だったかもしれないが、1990年代に多数の韓国人牧会者が日本で活動するようになってから、明確な区別ではなくなった。韓国人牧会者は当然のことながら韓国の教会文化を日本に持ち込んでくる。そこで自分のことを「モクサニム」と呼ぶように指導する者も出てきたし、その夫人は多くが日本人であるにもかかわらず「サモニム」と呼ばれるようになった。現在の日本の家庭連合では、韓国語の使用がかなり一般的になってきており、「モクサニム」や「サモニム」が何を意味するかは大抵の教会員が理解するようになっている。

 しかし面白いのは、「長老」「勧士」「執事」といった呼称は日本では一般的になっていない点である。私も1989年に韓国の教会で暮らしていたので、「チャンノーニム(長老様)」「ゴンサンニム(勧士様)」「チプサニム(執事様)」といった役職で信者同士が呼びあっているのを聞いたことがある。大雑把に言うと、信仰暦の長い年長の男性信者は「長老様」と呼ばれ、比較的若い女性信者は「執事様」、信仰暦の長い年配の女性信者は「勧士様」と呼ばれていた。しかし、日本ではこうした呼び名で信徒同士が呼び合う姿を見たことはない。それはこうした役職自体が日本の教会には存在しないためであろう。日本の教会の役職は、もっと職責や機能を直接的に表現したものが多い。具体的には、総務部長、教育部長、青年学生部長、婦人代表、壮年部長といった具合である。これは日韓の教会文化の違いと言えるかもしれない。

 続いて中西氏は韓国統一教会の礼拝のあり方を描写する。
「礼拝は日曜日の聖日礼拝と水曜日の水曜礼拝がある。礼拝の形式は特別なものではない。プロテスタント教会の礼拝と基本的に変わりなく、牧師の説教、祈り、讃美歌、信仰告白、献金、祝祷、お知らせ、祈りからなる。」(p.473)とし、それは『伝統』という信仰生活の儀式や行事を説明した書籍の内容とも一致するという。
「A教会を例にして見てみよう。礼拝の雰囲気は日本のプロテスタント教会の礼拝と同じで静かなものである。韓国プロテスタント教会の中には牧師が力強く感情を込めて説教し、祈りでは異言が発せられることも珍しいことではない。A教会にはそうした雰囲気、要素はない。・・・礼拝の様子からは日本でカルト視されている同じ宗教団体とは思えない。」(p.474)

 私は、『産経新聞』の国際面コラム「ソウルからヨボセヨ」を担当していた黒田勝弘氏の話を直接聞いたことがあるが、彼によれば、実際に韓国のキリスト教会の中には礼拝中にエクスタシー(恍惚状態)に入るものも多数あるという。私自身は韓国でそのような礼拝に参加したことはないが、アメリカではそれに近い状態になる礼拝に参加したことはある。それは神学校の「フィールド・エデュケーション」で、黒人中心の福音派の教会を訪問したときのことである。女性が非常に元気な教会で、牧師も女性であった。礼拝堂にはドラムとキーボードが置いてあり、それを大音量で鳴らして、ミュージカルさながらの礼拝が行われる。説教は音楽に乗って行われ、歌っているのか説教しているのか分からないような恍惚状態になるのである。牧師が話している最中に、「皆さん、証しはないか?」と言うと、次々に女性が前に出てきて信仰の証しをするといった具合である。礼拝全体が熱狂的で興奮に満ちており、中には異言を語りだす人や、踊りだす人もいる。それは一種の宗教的現象として尊重されるべきものだが、部外者がいきなりそこに参加したら違和感を感じるのは否めないであろう。宗教に理解の無い人であれば、それだけで「カルト」のレッテルを張るかもしれない。

 しかし、中西氏が参加したA教会の礼拝にはそうした恍惚状態やトランス状態を引き起こしたり、信者が礼拝中に異言を発するような特異な現象はまったくなく、礼拝は静かなものであったという。同じ教会でも国ごとに文化の違いがあり、牧師ごとに説教のスタイルに違いがあるとはいえ、統一教会の礼拝がトランス、エクスタシー、異言といったような現象を意図的に引き起こすタイプのものではなく、むしろ説教者が理性的に語ることによって信者を感化しようとするのは、全世界共通の普遍的な傾向であると言ってよい。このことは、西洋の統一教会の修練会を研究したアイリーン・バーカー博士の記述からも傍証することができる。
「講義は、高等教育の多くの場所で毎日(同じかそれ以上の時間)なされているものよりもトランスを誘発するものではない。さらに、私が観察したことは、入会する者たちは講義の内容が面白くて刺激的であると感じたらしく、また積極的に聞き耳を立て、ノートをしばしば取っており、そして(講義の後で質問をすることから明らかなように)自分自身の過去の体験と関連づけているのである。統一教会の修練会では、お経や呪文のようなものが唱えられることはほとんどない。仮にそれが行われるところでも(欧米では、主にカリフォルニアであったが)、ゲストに関する限りは非常に限定された性格のものである。確かに、それはクリシュナ意識国際協会の寺院を訪問したときに参加するように勧められるお経や、実際に、より伝統あるヒンドゥー教の寺院で通常行われているものほど激しくはない。統一教会は恍惚状態を志向する宗教ではないし、通常の活動の一部として、信者たちを熱狂に駆り立てることはしない。(文と一部のカリスマ的な指導者たちは、ときどきムーニーたちに熱狂的な大衆反応を引き起こすことができるけれども。)意識の変容状態または催眠については、そのような言葉が全く空虚な意味で適用され、同語反復的に用いられるか、普通の、日々起こっていることを描写しているのでない限り、統一教会の修練会に参加したことのある者なら誰にでも明らかなように、こうしたことは全く起こっていない。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か? より)

 実は中西氏が紹介している書籍『伝統』は日本語にも訳されており、日本における礼拝や儀式のあり方は、基本的に韓国のものと同じである。西洋においても、大きな違いはない。したがって、日本でも韓国でも西洋でも、礼拝の様子は大きく変わらないはずである。

 にもかかわらず、中西氏は「礼拝の様子からは日本でカルト視されている同じ宗教団体とは思えない。」という比較をあえて最後に付け加えているのである。中西氏が本気で日韓の比較を行いたいのであれば、日本でも礼拝に参加して、韓国との違いを直接的に体験すべきであった。それが研究者としての真摯な態度というものであろう。そうすれば、なぜ日本では統一教会は「カルト視」され、韓国ではそうされないのかに関する実証的で具体的な根拠を提示することができたかもしれない。しかし、ここでも中西氏は自分が直接出会った韓国統一教会の「実像」と、櫻井氏から植え込まれた日本統一教会の「虚像」を比較することに終始しており、実証的な比較研究を避けているのである。

 仮に中西氏が日本のどこかの統一教会の日曜礼拝に参加したならば、その様子は韓国の統一教会の礼拝と大差ないことを発見するであろう。それは形式としてはプロテスタント教会の礼拝と基本的に変わりなく、牧師の説教、祈り、讃美歌、信仰告白、献金、祝祷、お知らせ、祈りからなるからである。そしてまた、日本の統一教会の礼拝でもトランス、エクスタシー、異言といったような現象が起こることはなく、礼拝の雰囲気は静かなものである。それを見た中西氏の感想は、「この宗教団体がなぜカルト視されているのか分からない」となるに違いない。しかし、実際には中西氏は日本の統一教会の礼拝を観察したことがないので、「虚像」としてしかそれを理解することができないでいるのである。これが中西氏の研究の根本的な欠陥であることは、何度でも繰り返して指摘すべきである。

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