書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』64


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第64回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、具体的な勧誘手段として「アンケート調査を装ったものがある」(p.218)と述べ、東京の「青春を返せ」裁判に提出されたアンケート用紙の例を掲載している。この「装った」という表現には、アンケートが一種の偽装であり、調査を装って相手の名前や連絡先を聞き出す手段に過ぎないという意味が含まれている。実際、東京の青春を返せ裁判では、原告側は「最初の声かけに用いる『生活意識アンケート』などは、対象者を立ち止まらせ、対象者の氏名・住所・連絡方法・関心事などを聞き出すための小道具であり、集計や分析などに用いられることはないので全くのトリックである」と主張した。しかし、これらのアンケートを用いて伝道活動を行っていた信者らは、「集計や分析に用いますので協力をお願いします」と言ってアンケートを取っていたわけではないので、そこには何らの虚偽はなく、トリックではない。

 アンケートを用いて相手の関心事を聞き出して伝道するという行為は、統一教会の信者たちに限ったことでなく、一般的に行われている行為であり、とりたてて問題にすべき事柄ではない。キリスト教徒に広く読まれている『クリスチャン生活事典』にも、「アンケートを使ったアプローチのしかた」が紹介されており、以下のような記述がある。

「特別なアンケート調査を準備して近づいて行ってもよいでしょう。『恐れ入りますが、今、この一帯でこのような宗教アンケート調査をしているものですが、ご協力いただけますか。』それをきっかけに神さまのことを語ります。」(島村亀鶴、長島幸雄、船本坂男監修『クリスチャン生活事典』教会新報社、p.275)という記述がある。この事典の276ページにはアンケート調査の例が掲載されているが、このアンケートの目的は相手に宗教的なニーズや関心があるかどうかを見極めることにある。これは集計や分析に用いられているのではなく、伝道におけるアプローチのための小道具として用いられていることは明らかである。櫻井氏の書籍の218~219ページに掲載されている、統一教会の信徒が用いていたとされるアンケート調査もこれと類似のものであり、ごく一般的なアプローチ法であると言える。

 櫻井氏はこのアンケート用紙について、「一通り答えるとその人の関心の所在が把握できるようになっており、連絡先まで答えてもらえれば完璧である」(p.219)として、勧誘のための極めて有効な小道具であるかのように説明している。これも、青春を返せ裁判の原告たちが繰り返し主張してきたことと同じであるが、その効果はかなり誇張されている。このアンケートは道行く人が何に関心があるかどうかを聞くものであり、相手が宗教的な事柄に関心がありそうな人かを判別するためのものである。したがって、実際にはアンケートに答える人はまちまちの対応をするのであり、一律な答えが返ってくることはない。また、アンケートの最後には住所、氏名、年齢などを書く欄があるが、それに答えることを同意した人だけがそこに記入するのであって、アンケートに答えた人が全て記入するわけではない。

 通常、路傍伝道でアンケートに答えるくれる人は声をかけた30人から40人に1人であり、一日アンケートを取っても2、3枚取れれば良い方であり、1枚も取れない人もいる。また、アンケートに答えた人でも、住所や電話番号まで教えてくれる人はその内の半数かそれ以下であり、アンケート伝道の効率は決して良いとは言えない。こうしたアンケート調査や、勧誘のトーク、修練会の効果を実際以上に誇張して主張するのは、統一教会反対派の常套手段である。

 続いて櫻井氏は「この勧誘手法にはトーク・マニュアルがある」(p.219)として、札幌での裁判に提出された「み言葉トーク」に準拠して、それを北大の学生であった30年前の自分自身に当てはめた「勧誘トーク」を紹介している(220ページに掲載)。統一教会信者の伝道のトークは、とにかく相手を褒めまくることに特徴がある。櫻井氏がそれを30年前の自分に対して行うということは、要するに「自画自賛」であり、ナルシスティックな匂いのする噴飯ものの文章だ。彼は30年前の自分に対して「さすが北大生」「真面目な方なんですね」「哲学の本も読まれる! すごいですねえ」などというセリフを吐くことに対して恥ずかしさを感じなかったのであろうか? そして、それを受けて「どうだろう。時間があればちょっと聞いてみようかという気になる人も多いと思われる」(p.220)と読者を説得している。要するに、若い学生や青年はこうしたトークに弱いのだと言いたいわけである。

 しかし、ここでもこうしたトークの効果が過大評価されていることは指摘しておかなければならない。「ムーニーの成り立ち」の著者であるアイリーン・バーカー博士は、ムーニーたちがゲストに対して並々ならぬ好意を浴びせることは疑いないが、それにも一定の限界があることを指摘している。初対面の人からいきなり褒めちぎられたら、何か裏があるのではないかと疑う人もいるということだ。
「もちろん、過度の好意に対して懐疑的になる場合はある。特に、よく知らない人なのに信用を得ようとしていると信じるに足る理由がある人々からそうされた場合は、なおさらである。そのような場合には、あまりにも大げさな呼びかけは逆効果になり得る。自分のサイズより二つも小さい服を試着しても、なんと素敵なんでしょうと褒めちぎるような店員からは、何も買う気にはならないものである。」(「ムーニーの成り立ち」第7章 環境支配、欺瞞、「愛の爆撃」より)

 櫻井氏が220ページで紹介している「み言葉トーク」なるものは、賛美の部分を除けばかなり本質的な「宗教的トーク」であると言える。これから学ぼうとしている内容が、人生の根本問題に関わるものであり、哲学や宗教に関わるものであることをかなりストレートに表現しており、こうした内容にまったく関心のない人は聞いてみようとは思わないであろう。こうしたトークに反応してビデオセンターに行ってみようと思う人は、最初から宗教的な事柄に関心のある人であり、自分を高めたいとか、自分を変えたいと思っている人である。統一教会の信者たちが求めていた人はまさしくそのような人であり、ビデオセンターに来た人は、ある意味で「来るべくして来た人たち」であったと言えよう。しかし、入口におけるニーズが一致したとしても、そこで提供されたものが自分の求めていたものと違っていると感じれば、その人はそれ以上通おうとは思わなくなるのであり、どの段階においても「自由意思による選択」が起こっていることも忘れてはならない。

 統一教会の信者たちが行ってきた伝道は、かなり「目的志向」的であったと言える。自分たちの最大の財産であり売り物は「み言葉」であることを強く意識しているが故に、それを伝えることに主眼を置き、それに相対しない人を深追いすることはない。それは時間の無駄であると認識しているからである。つまり、伝道とは人の考え方を無理やり変えて信仰を持たせることではなくて、み言葉に反応しそうな潜在的素養を持った人を探し、その人にできるだけ分かりやすくみ言葉を伝えることである。結果的に、アンケート、ビデオセンターでのトーク、修練会の各過程を通して、宗教的な事柄に関心のない人は淘汰されていき、最終的に「統一原理」の内容を受け入れる人が選択されていくのである。

 続いて櫻井氏は、札幌地裁に提出された「新規前線トーク・マニュアル」を引用し、伝道対象者として望まれる人はアパート在住の勤労青年や大学生等であり、勧誘しやすく、自分たちの欲しがっている人材に対象が絞られていると分析している。ここでも櫻井氏は、「宗教の布教で一般的に見られるような貧病争で悩み苦しんでいる人が対象外とされていることにも注目したい」(p.221)と指摘している。

 櫻井氏はこれをもって、統一教会の伝道がどこか不純で宗教的でないと言いたいようだが、これは二つの観点から批判することが可能である。第一に、この「トークマニュアル」は青年を対象としたものであり、一部署の事情や目標を反映したものにすぎないということだ。青年部署の伝道対象が青年に絞られているのはごく普通のことであり、より伝道されやすいタイプの人に選択的に声をかけるのもごく当たり前のことである。第二に、「貧病争」ばかりが新宗教に入信する動機ではないということだ。

 伝統的な新宗教が「貧病争」で悩み苦しんでいる人々を布教の対象として来たことは事実だが、高度経済成長期以降(1970年代以降)に教勢を伸ばした新宗教は必ずしもこのパターンには当てはまらず、もっと精神的・倫理的なニーズで宗教に入信する人が多くなったこともまた事実である。これは日本が経済的に発展し福祉制度が充実したことにより、「貧病争」の解決に必ずしも宗教が必要なくなったという時代背景が関係しているのであり、統一教会に特異な現象ではない。統一教会が台頭してきたのも1970年代以降であるから、それ以前の新宗教と性格が異なるのは当然である。さらに、こうした性格は青年や学生に対するアプローチにおいて顕著なものであり、より年配の「壮年壮婦」に対するアプローチにおいては、より伝統的な新宗教に近い「貧病争」の解決が重要な役割であったことは指摘しておきたい。一部署の方針から統一教会全体の性格を分析する櫻井氏の手法は軽率であり、研究対象に直接向き合って調査をしていないことから来る誤解であると思われる。

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