書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』04


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第四回目である。

第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略)
第1章 統一教会研究の方法

 櫻井氏は本論の初めの部分で自らの研究方法を明らかにしているが、それは「『宗教』という社会的実体はない。」という非常に抽象的な一文から始まる。その意図は、「宗教」という言葉は日本では明治期以降に西洋から輸入された抽象概念に過ぎず、必ずしも社会的実体としての諸宗教の実態を反映したものではないと主張することにある。

 なぜこうした持って回った抽象論から始まるのか? それは「統一教会は宗教である」と言った時点で、その定義から演繹される「信教の自由」によって保護される対象になってしまうからである。それが櫻井氏には気に入らないらしく、遠回しに「統一教会はわれわれが『宗教』という抽象概念から連想するような、憲法の保護を受けるような団体だとは言い難い。少なくともそのことを疑ってかかる必要がある」と言っているのである。

 櫻井氏は、「宗教団体というのは自ら信じて入った人達の集まりなのだという『宗教』の前提が統一教会には通用しない。したがって、次の観点が統一教会の研究においては極めて重要になる。・・・個人の自立的/自律的、自由な信仰という想定は、あくまでも近代以降の教学・宗教学、あるいは政治的に構築された『宗教』概念に前提されるものだ。諸宗教において、このような純粋な信仰形態は存在しない」(p.5)とまで言い切っている。すなわち、彼は初めから統一教会の信仰は自律的でないと決めつけて、議論の前提を組み立てているのである。その最たる表現が、「学生や市民の信教の自由を一顧だにしない布教活動を専らにする宗教団体」という統一教会に対する評価である。個々の事実を積み上げた上で、そのことを立証してから論じるではなく、方法論の時点でそれを大前提として振りかざすのであるから、すさまじい偏見である。このように、櫻井氏は統一教会を憎む敵意のあまり、「信教の自由」の概念を歪めるところまで行っているのである。

 そもそも、「信教の自由」という近代国家の法理は、個人の自律的信仰という抽象概念を根拠として確立されたものではないし、自発的な信仰を持った人々にのみ保障されている権利でもない。信教の自由は、過去において信仰の故に特定の人々を差別したり、迫害したり、甚だしくは殺害するというような、悲惨な歴史を教訓として確立された「血の代価」であり、決して教学や宗教学や政治的構築といったような抽象論から導かれたものではない。それこそ個々の諸宗教が受けた差別や迫害を糧として勝ち取られたものなのである。この点に関しては、本ブログのシリーズ「人類はどのようにして信教の自由を勝ち取ったか?」に詳細が述べられているので参照していただきたい。

 日本国憲法第20条にあるように、信教の自由は「何人に対しても」保障されている。これはその信仰が自発的であるとないとに関わらず、本人がそれを信じるという限りにおいては、誰であっても、またどのような信仰であっても、普遍的に保障されているという意味である。この原則を崩した瞬間から、宗教の差別が始まり、信教の自由の侵害が始まると警告しなければならない。

 西洋においても日本においても、社会全体の中に文化として浸透している宗教や、家の宗教をそのまま受け入れて信仰している人は多い。幼児期から親の宗教教育を受けてそのままその信仰を受け入れる子供も多い。その意味で彼らの信仰は自発的なものではないが、だからと言って彼らの信教の自由が保障されないとは誰も考えない。およそ宗教である限り、どんな宗教であっても、一切の差別を受けずに保障されるというのが、日本国憲法や、国際的人権規範(世界人権宣言や自由権規約)の定めた「信教の自由」の概念である。

 櫻井氏は、こうした人類の獲得した貴重な権利を明治以降に西洋から輸入された「抽象概念」として貶め、信教の自由の存在しなかった近代以前に日本を後戻りさせ、社会に存在する個々の諸宗教を差別的に扱うべきだと言っているのである。

 統一教会が宗教であるかどうかに関しては、アイリーン・バーカーの著書『ムーニーの成り立ち』では、第3章「統一教会の信条」において、「統一教会は本当は宗教ではないということがときどき言われているが、これは無意味なことである。どのような基準によっても、統一教会が宗教であることは極めて明確である」と断言している。そして脚注部分では、米国の連邦裁判所と州裁判所の双方が、いくつかの訴訟で、統一教会は本質的に宗教的であり、したがって(すべての宗教の自由な実践を保証する)憲法修正第一条の保護を受ける権利があると判示したことを紹介している。その中でも、『統一教会対移民帰化局』の判決文からは、「統一教会は、歴史的類推、哲学的分析、裁判の判例(実際に米国移民帰化局自体の基準による)によって、真正な『宗教』として認められなければならない」という一文が引用されている。

 日本においても、世界基督教統一神霊協会は1964年に宗教法人として認証されているし、2015年には宗教法人としての法人格を保ったまま、「世界平和統一家庭連合」に名称変更された。その意味で、統一教会が歴とした宗教であることに疑いはない。

 宗教に対する差別は、通常その宗教が「真正な宗教」であることの否定から始まる。戦前は「淫祠邪教」や「迷信」という言葉が使われたし、戦後は「カルト」という言葉が使われるようになった。櫻井氏が統一教会を「真正な宗教」として認めない態度も、こうした宗教差別の伝統を継承しているといっていいだろう。

 櫻井氏が統一教会を宗教であると認めたくない理由の一つは、その友好団体が実に幅広い活動を行っていることにありそうだ。彼はこう言っている。

「本研究が扱う『統一教会』という宗教には、勝共連合という反共政治団体や、純潔教育を推進し、ジェンダーフリーのバッシングを行う市民運動体、統一教会信者向けの商品を製造販売する会社から信者が物販する商品を卸す商社、世界日報やワシントンタイムズという新聞社や信者向けの出版を一手に行う光言社という出版社、平和運動や社会事業に市民を誘うNGO/NPO組織等、ありとあらゆる社会組織が統一教会傘下に組み込まれている。どれが統一教会の実体かといえば、どれも統一教会の一部である。・・・おそらく、このような韓国の財閥企業体にも似た組織を『宗教』の枠だけで捉えても見えてこない部分が多い。」(p.4)

 この記述には「統一教会」と「統一運動」の混乱・混同がみられる。統一教会の実体はあくまで宗教法人である。その他の団体は、地上天国実現という文鮮明師の理想を実現するために信者たちが立ち上げた会社組織やNGO/NPOであって、宗教法人とは異なる法的主体である。こうした諸団体の行っている運動は、いわゆる伝統的な宗教活動以外の広範な社会活動を総合したものとして、「統一運動」と呼ばれている。もちろん多くの統一教会信者が関わっているが、これらの組織の目的は統一教会の信者を増やすことにはないので、信仰を共有しない人々も関わることができる。これらの諸団体は、宗教法人の傘下にあるわけでもなく、その一部でもない。

 それは創価学会と公明党と聖教新聞社が異なる法的主体であり、立正佼成会と「明るい社会づくり運動」と佼成出版社が異なる法的主体であるのと同じ理屈である。日本の新宗教がその理念に基づく企業を設立したり、政治団体や社会運動団体を作ったりすることは珍しいことではない。だからと言って、そうした社会的な活動をしている宗教団体を「宗教」の枠だけで捉えられないと特別扱いすることは、通常はしないであろう。統一教会の周辺に存在する「統一運動」を推進するための諸団体も、前述の宗教の社会運動と何ら変わりがない。これらの存在をもって統一教会は真正な宗教ではないと主張することは、まったく根拠がないのである。

 宗教にはいろいろなタイプがある、俗世間を避けて隠遁することに主眼を置く宗教や、心の安寧だけを追求する宗教であれば、その信者は社会活動に広く携わることはないであろうから、その活動は純宗教的なものにとどまるであろう。しかし、世直しや社会変革を志向する宗教団体も存在するのであり、信仰を動機とした奉仕活動や社会運動を展開している宗教は多い。だからと言って、その宗教の実体を「宗教」という枠だけで捉えても見えてこないとか、ましてや憲法上の保護を受ける「宗教」の概念に当てはまらないなどと主張するのは不当である。社会変革を志向する宗教団体も、志向しない宗教団体も、等しく憲法上の保護を受け、法の下に平等である。

 ただし、信教の自由を定めた憲法の保護を受けるのは伝統的な宗教活動のみであり、友好関係にある会社組織やNGO/NPOは、その目的に相応しい社会のルールに従って活動すべきことはもちろんである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク