アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳58


第7章 環境支配、欺瞞、「愛の爆撃」(1)

前章では、ム-ニ-たちは明らかにゲストの修練会体験についての解釈のすべてをコントロールできているわけではない、というよりは、その大部分をコントロ-ルできていない、ということを見てきた。とはいっても、彼らが特定の特徴をもって修練会に参加した特定の人々から、自己の傾向や過去の経験に照らして主体的に選択する能力の少なくとも一部を剥奪した、という可能性はある。修練会の物理的な影響に対する生物学的な感受性に差異があることを裏付けるいかなる証拠もあるようには見えなかったが、修練会の社会的影響に対する心理的な感受性の違いが、なぜあるゲストは入教するのに他の者はしないのかを説明するのかもしれない。我々は、回心した者たちがどのような種類の感受性を持っていたと思われるかについては、第8章と第9章で目を向けることにして、この章では、修練会が少なくとも一部のゲストに対して強制的な影響を与えたかも知れない方法のいくつかについて、もう少し詳しく見てみることにする。

初めに、私が特に関心を持っている実践を際立たせるために、オークランドで勧誘活動に従事していたある女性の「証し」の一部を引用することにする。彼女が発言した後で、当時ベリータウン国際修練所の所長であり、その女性が参加していた教育課程に責任をもっていた周藤健がコメントしている。

私たちは幸福をつくる者でなければならない、とオンニは教えました。人生の目的は喜びだから、常に喜びに満ちていなければならない、と言いました。オークランドでは家の中を歩くときもそのようにしています。皆がとても喜びに満ちています。私たちは歌を歌いますが、ここ[ニューヨーク州ベリータウン]よりも三倍速く歌います。オンニは最初のうちはあまり真理を強調せず、本当に人々を愛さなければならないと言います。「愛の爆撃」をしなければならないのです。オンニには約12名のスタッフがいますが、彼らは全世界で最高の「愛の爆撃をする人たち」です。ときどき私がゲストの一人に手を焼くようなとき、例えば反応してくれないというようなとき、私がその人をじっと見つめると、こちらにやって来るのです。そのスタッフの能力は、何かを言うことにあるのではなく、その人を愛することにあるのです。最後にはその人の心が溶けて、修練会に参加することを約束してくれます。オンニは新会員一人に対して一人を割り当てて、私たちはその人のためにあらゆることをしなければなりませんでした。一瞬たりとも離れることができませんでした。トイレに行ってくるときも付いて行きましたし、彼らのことを何よりも優先しました。ですからメンバーの多くは実際、私がいたから来たというよりも、大部分はオンニが私たちに教えたことのゆえに入教したのです。オンニが私たちに見せてくれたような愛と基準の故にです。

周藤氏: 今彼女が言ったことは伝道に成功するための鍵です。オークランドではそれが実践されています。・・・愛こそが成功の秘訣だったに違いありません。愛は真理よりも重要です。いかにして愛の源となるかが大きな仕事であり、それには長い時間がかかります。今すぐにオンニのようになることは難しいことです。彼女の秘訣はお父様に対する愛にあるのです。(注1)

恐らくわれわれのほとんどが微妙な問題――例えば、ある会合でどのように投票すべきか――について決心することができないでいるとき、最後に発言した人に何らかの形で左右された、という経験をしたことがあるであろう。また、恐らくわれわれのほとんどが、他の人々がみな違った観点で物事を見ているように見えるとき、自分が異質な存在に思えて不快に感じたことがあるであろう。自分が間違っているのではないかと疑い始めたかもしれない。(注2) しかしながら、生涯を通じて当然だと思っていたある特定の見解が、結局は、物事をみる唯一の見方ではないかもしれないということを悟って、突然驚いたという経験をした者も、なかにはいるであろう。(それは恐らく、それ以前の環境では誰もそれに対して疑問を感じなかったからである)。

ムーニーたちが自分たちの修練会の環境をコントロールすることに成功していることには、ほとんど疑いの余地はない。結局は、そこは彼らのホームグランドなのである。彼らは一日の日程に関する決定を投票にかけたりはしない。講義とその他の活動には、全員の参加が求められている。もしゲストがそれに合わせたくないというのであれば、彼らは去るように求められる。それは、その日の午後に別のことを一緒にする友達を見つけたりしないようにするためである。ゲストがお互いの疑問を強め合うために集まるような機会は滅多にない。熱心なムーニーたちがほとんど常に一緒にいるということは、会話があまり批判的になったり、的外れになって焦点が定まらなくなることを回避するという意味もある。特にカリフォルニアでは、一緒にいるムーニーたちが講義やその他の活動に対して、まるで満場一致で「これって素晴らしいじゃない?」という反応をするので、ゲストはうきうきした気分になり、ムーニーのチアリーダーの模範に従わざるを得なくなるかも知れない。これは効果的なやり方だが、決して統一教会に固有のものではない。デイビッド・テーラーは、自分が参加したブーンビル・セミナーのこのような側面を、「全員参加の振付け」とうまく描写している(注3)。 さらに、ゲストに対して感想文を書くように求めたり、そばに呼び出してどう思うかを尋ねたりすることによって、ムーニーたちは一方で否定的な反応を見つけてそれに対処しようとし、他方で肯定的な反応を強化したり「具体化」したりできるように、何がゲストにアピールするかを見つけることができるのである(注4)。

(注1)周藤健「120日修練会マニュアル」未刊の複写物、ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1975年、p.338
(注2)S・E・アッシュ「判断の変更と歪曲に対する集団の圧力の効果」、E・E・マッコビー他『社会心理学読本』第3版、ロンドン、メスエン、1966年に収録。
(注3)D・テイラー「新しい人々になる:若いアメリカ人の統一教会への勧誘」、R・ワリス(編)『至福千年信仰とカリスマ』、ベルファースト、クイーンズ大学、1982年に収録、p.183。M ・ギャランター「大グループへの心理的な誘導:現代の宗教セクトからの発見」アメリカン・ジャーナル・オブ・サイキアトリー、第137巻、第12号、1980年は、このような実践とAAにおけるスポンサーシップ制度との間に興味深い類似点があることを示している。彼はまた、グループを中心として信仰や感情を探究しようとした、モラビアのプロテスタント教徒や再洗礼派のような他のキリスト教諸派の中に、その先例があることを指摘している。「実際、『成功経験のある』ベテランと新規参加者を、モデリングと集団への同一化のための共同のグループ体験の中に混合させるテクニックは、現代の自助プログラムの中に普通に見られるものである」と彼は述べている。T・オデン「新しい敬虔主義」、E・バーカー(編)『新宗教運動:社会を理解するための視点』、ニューヨーク、エドウィン・メレン出版、1982年も参照。
(注4)ここでは私は “objectified”「具体化」という用語を、「真理」は具体化されるか「現実のものにされる」にという意味で使用している。P・L・バーガーとT・ラックマン「リアリティのの社会構造:社会で知識として通じる全てのこと」ガーデン・シティ、ニューヨーク、ダブルデイ、1966年を参照。

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