日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ13


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では仏教におけるメシヤとは何であるかと言えば、弥勒菩薩(みろくぼさつ)ですね。原語では「マイトレーヤ」と言いますが、釈迦牟尼仏の次の時代に現われる未来仏とされています。この未来仏は、お釈迦さまが入滅された後、56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされ、それまでは兜率天で修行しているといわれています。この年数を文字通りにとらえれば、ほぼ永遠に来ないということになりますので、この弥勒信仰があまり広まらなかった理由の一つには、「56億年後に来ると言われてもね・・・」ということがあったんですね。ですから、この年数を文字通りにとらえないで、さまざまに解釈しようという試みが生まれました。いずれにしても、まだ来ていない未来仏ですから、いまは兜率天で修行しているわけです。

この弥勒信仰には二通りありまして、弥勒菩薩がいらっしゃる兜率天に往生しようと願う信仰、すなわち来世で弥勒様に出会いたいという信仰で、これを「上生(じょうしょう)信仰」と言います。もう一つは、弥勒仏がこの世に出現するという信仰であり、これを「下生(げしょう)」信仰と言います。この下生信仰の方が一種のメシヤ思想になります。

不滅の法灯

不滅の法灯

それでは、日本では弥勒信仰というものがどのように広まっていったのかというと、実は比叡山延暦寺の根本中堂に、最澄の時代から1200年間、一度も消えたことがない「不滅の法灯」というものがあります。この不滅の法灯をともすときに、最澄が詠んだ歌が以下の歌です。
「あきらけく 後の仏のみよ(御世)までも 光伝えよ 法(のり)のともしび」

この「後の仏の御世」というのが、弥勒仏がやって来る時を指しています。すなわち、この不滅の法灯が弥勒仏の下生されるときまで輝いていてほしいという祈りが込められているわけです。

また、空海は高野山で入定する際に、兜率天へ往生することを願い、弥勒下生の時には共に来臨するという遺言を残したと伝えられています。ですから、最澄も空海もともに弥勒信仰を持っていたことが分かります。

この弥勒信仰は末法意識によってさらに高められたわけでありますが、日本ではやがて浄土宗が教勢を伸ばしたために阿弥陀信仰の方が盛んになり、弥勒仏は他の諸仏ほど知られなくなってしまいました。どちらかと言えばマイナーな信仰に留まっていたわけです。実は、これを現代に蘇らせたのが「天地正教」でした。

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天地正教の出現というのは、日本における統一教会の土着化路線と切っても切り離せない関係にあります。このことは、私のブログのシリーズ「霊感商法とは何だったのか?」で詳しく解説していますので、ここでは概略のみ解説します。

もともとキリスト教そのものを日本人に伝えるというのは極めて困難であったので、いわゆる「霊感商法」を行った一部の信徒たちは、お壺や多宝塔を売るトークの中に、「先祖の因縁」などの土着の仏教的概念を入れ込んだわけです。もともと日本人は仏教的信仰を持っていますから、それを媒介として教会の信仰に導きました。これが壮年婦人層に信者が拡大した一つの大きな理由となりました。

ところが、1987年ごろから「霊感商法」が社会問題化することにより、それまで販売を行っていた信徒たちは自粛するようになりました。それを収拾するために「霊石愛好会」というものが1987年8月に作られて、開運商品を買った人たちをケアーするためのサークルとして機能しだしたわけです。

一方、北海道に川瀬カヨという方がいました。この方は北海道の土着の信仰を持った霊能者であり、ミニ教祖のような人でした。この人が「霊感商法」と出会って、霊石を授かり、その中で語られるトークの内容に感動し、み言葉を学ぶようになります。そして彼女は「富士会」という自分の教団をみ旨のために捧げようと決心するようになります。これは教祖自身が統一教会に回心したということを意味します。彼女の教団は1987年11月に「天運教」となります。

最終的には、霊石愛好会と天運教が合体する形で、1988年2月に天地正教が出発しますが、これは「霊感商法」を通じてつながってきた仏教的世界観を持った壮年壮婦たちをプールして育てる組織として機能するようになったわけです。天地正教ではメシヤを証すために、「末法の世において下生された弥勒仏は文鮮明夫妻である」という教義を体系化し、仏教を入り口としてメシヤにつながれるようなシステムを構築したわけです。これは川瀬カヨさんがもともと持っていた信仰というよりは、彼女が統一教会に回心することにより、統一教会の教義を仏教的に表現したものであったと言えます。

文鮮明師と川瀬カヨ教主

文鮮明師と川瀬カヨ教主

この写真にあるように、川瀬カヨ教主はたいへんお父様を尊敬し、心酔していました。教義の理論的な部分は統一教会内の仏教に詳しい方々が体系化したとはいえ、川瀬教主のお父様に対する信仰は本物であったといえます。1994年1月1日に川瀬教主はある重要な発表をします。それは彼女が1992年5月10日に、高野山奥の院で弘法大師の霊から「弥勒は文鮮明師である」という経綸を得た、という内容でした。

1994年2月4日に、川瀬カヨ教主が83歳で亡くなり、三女の新谷静江さんが二代教主となりました。そして1995年2月3日には、本山において文鮮明先生ご夫妻の写真を祭壇に掲げる儀式を行い、公式に弥勒慈尊が文鮮明先生ご夫妻であることを表明しました。さらに1996年5月12日、第2回弥勒まつりを開催した際に、新谷教主は下生された弥勒は文鮮明師夫妻であることを講話で明言しています。ですから、これは一つの壮大な実験として、仏教的体系の教義を立てて統一教会とは別の宗教団体を作って、仏教を媒介としてメシヤにつながる道を切り拓いたということができます。

ところが、残念なことにこの天地正教は消滅してしまいます。天地正教は「統一原理の仏教的展開による日本への土着化」という明確な目的の下に出現したのであり、それは一定の成功を収める可能性を秘めていました。ところがこの二代目教主の新谷さんという方は、川瀬カヨさんほどお父様に対する信仰や忠誠心がなかったのか、統一教会本体との間に確執が生じるようになります。これは「1998年の内紛」と呼ばれ、同年5月に新谷静江氏は教主の座を追われることになります。

もともと川瀬カヨさんの教団は一地方の小さな教団でした。そこに統一教会の信者たちがお金と人材を投入して全国に支部を持つ教団に発展させたわけですから、初代教主の娘とはいえ、その団体は新谷静江さんのものではなかったのです。それを勘違いして主導権を握ろうとしたのが確執の原因でした。結果的に天地正教は教主制度を廃止し、松波孝幸氏が会長に就任し、新谷氏は一部の信徒を連れて新たな団体を作ることとなりました。そして1999年3月に、天地正教は松波会長の申し出(和合宣言文)によって、事実上統一教会に吸収合併されることとなりました。もしあのまま天地正教という看板を掲げて活動を続けていれば、もっと幅広く仏教的背景をもった人々を導くことができた可能性はあったかもしれませんが、このような結果となりました。

さて、これから結論を述べますが、これはあくまで私の「私論」であって、公的な権威のある見解ではありません。私がいままで研究した結果として、だいたいこれくらいのことは言えるかなという程度の内容です。

まず仏教そのものは、大乗仏教から他力信仰、弥勒信仰へと、メシヤを受けいれる方向へと漸次発展を続けてきたと見ることができます。そして、日本人の精神性に仏教が与えた影響は非常に大きく、それを無視して伝道することは困難であると言えます。日本における統一教会と仏教の出会いの例としては、①草創期における立正佼成会からの青年信者の復帰、②先祖の因縁などを説いた「霊感商法」、②天地正教の設立と消滅――などを挙げることができますが、本当に天の御心に適う形で仏教と統一教会が出会えたかどうかは疑問です。かなり人間の責任分担の失敗という要素もあったのではないかと思います。

教団復帰というレベルで考えると、過去の体験の困難さからも察することができるように、日本における仏教界、仏教の信仰者を天につなげるためには、仏教界自体の精神的刷新と同時に、我々の更なる成長が必要であると言えます。(了)

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