シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」25


天地正教(1)

天地正教は、川瀬カヨが率いていた「天運教」という名の宗教団体が、1988年に改称して成立した、弥勒信仰を中心とする教団であるが、実はこの団体の背景に「霊感商法」が存在することは周知の事実である。簡単に時系列を追って両者の関係を説明すれば、以下のようになる。

前述したように、「霊界商法」が社会的批判を浴びたのを受けて、ハッピー・ワールド社と各販社は1987年3月に、壷、多宝塔などの取引を一切中止する旨の「自粛宣言」を提出した。しかしその一方で、1987年8月には「霊石愛好会」が設立され、「宝石に感謝する集い」を各地で開いたりして巻き返しを開始する。「霊石愛好会」が出版した『霊石の恵み』には、霊石を授かることによって、家族関係が良くなった、商売が繁盛、事故・災難から救われた、結婚できた、子宝に恵まれた、病気が治った、などの恩恵を受けたことが体験談として綴られている。この本の序文は川瀬カヨが寄せたもので、霊感商品の付加価値は「霊界から来るもので、心眼で悟らなければいけない。それは与えられたものだから金銭のあるなし、値段にかかわらず受けなければならない」と説いている。

川瀬氏は、1987年11月26日に宗教法人「天運教」を設立して代表になり、翌年2月1日に天運教は「天地正教」に名称変更し、全国の霊石愛好会の道場はそのまま天地正教の支部道場に看板を掛け替えた。したがって、「霊感商法」「霊石愛好会」「天地正教」には直系の親子のごとき関係があり、批判者たちは天地正教を「統一教会のダミー教団」であると指摘してきた。

「天地正教」に関する宗教学者による客観的な研究には、北海道大学の桜井義秀教授による「変貌する新宗教教団と地域社会-天地正教を事例として-」がある。桜井氏は、全国霊感商法被害対策弁護士連合会による天地正教の批判を踏まえながらも、川瀬カヨの生涯を資料に基づいて丁寧に追いながら、天地正教の成立過程を分析している。本稿では、桜井氏の分析を基に、天地正教の成立過程と統一教会との関係を分析することにする。

1.川瀬カヨの生涯とその教え
川瀬カヨは、日本の新宗教の女性教祖に典型的なシャーマン的な霊能者である。苦難の半生を送った後に、更年期後に神憑り体験をし、宗教教団を遍歴しながら自身の宗教観と儀礼を確立していき、さらに修行によって霊威を強化するという、教祖の典型路程のような生涯を歩む。川瀬の後援会組織はもともとの名称を「富士会」と言ったが、これが後に「天運教」と呼ばれるようになる。

天運教時代の祭神は、馬頭観音(農耕、荷役用馬の供養との習合)と八大龍王(水神信仰との習合、護法の善神)、弘法大師信仰であり、これは北海道の土着の信仰における典型的な祭神であると言える。

川瀬カヨの天運教時代の教えは、「おさしず」と呼ばれる言行録にまとめられている。これは、1957年3月4日から22日にかけて神仏の「おさしず」として受けたものであり、神憑りの状態になった川瀬カヨに与えられた神示を、近くのものが書き取ったとされている。それは体系的な教義や儀礼ではなく、神仏への信心と、人として真っ当な生き方を説いた、素朴な教えであった。

晩年に、川瀬カヨは霊感商法と出会う。彼女は、壷売りの口上の中で展開された世界観、すなわち家系図を説きながら、先祖の崇りや供養、霊界についての説明を受け、さらにそれに続いて統一原理の内容を受講する中で、その世界観(コスモロジー)に魅力を感じるようになる。そして最終的には、それまでの自分自身の宗教を包含するものとして、統一原理の内容を受け取ったと考えられる。

その後、川瀬は自身が築いた天運教を再構築することに情熱をかけた15年間があり、この問、元の信者のかなりのものが離脱した。理由は、霊能者としての川瀬の力が失われたからではなく、「信者に壷の購入を勧める、例祭の後、統一教会の講義への出席を勧める、韓国へのツアーを勧める、教団の経営に外部者が介入してきた等」の事情があったからである。川瀬の後援会組織である富土会が、天運教の宗教法人化を進める1987年までに、従来の天運教についていた信者は去っていった。そして1988年、川瀬は天地正教の教主に就任した。

このように考えると、天地正教は、統一教会が天運教を「乗っ取った」とか「ダミー化した」というよりも、天運教の教祖であった川瀬カヨが統一教会に「回心」することにより、自らの教団を積極的に真の父母に捧げた、あるいは統一教会が天運教を教団まるごと「復帰した」と表現するのが妥当であるように思われる。教祖の「回心」の過程において、天運教の教義が統一原理の影響を受けて変化するのはごく自然なことである。

お父様と川瀬カヨ教祖

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