シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」27


天地正教(3)

3.天地正教の消滅
 桜井義秀氏は、天地正教の成り立ちに関して、「教団論で見れば、川瀬ファンサークルとしての信者組織は、統一教会からの資源導入(教義・組織・運営方法・資本等)によって、天地正教という全国組織に再編された。・・・つまり、現時点では、内棲型(統一教会とは異なる教義・組織体制・信者層を含む)と提携型(統一教会の活動目的、活動自体との協力体制)の形態を示しているが、教団の成立過程としては圧倒的に外部からの影響力が強かったと言わざるを得ない」と結論している。つまり、統一教会信者の介入がなければ、天地正教の出現自体がなかったということである。

 このように、天地正教は「統一原理の仏教的展開による日本への土着化」という明確な目的の下に出現したと理解でき、それは一定の成功を収める可能性を秘めていた。しかし、結果的には天地正教は統一教会に合併吸収される形となり、法人としては形の上で存続しているものの、事実上消滅してしまった。この過程に関しては、主に統一教会反対派の記述になると思われるWikipediaの「天地正教」に関する記載の中で、以下のように解説されている。

1998年5月、新谷静江が教主の座を追われる。新谷教主や天地正教の幹部は、韓国の統一教会幹部らの献金の扱いに非常に不信を持ち、文鮮明教祖に韓国の「世界日報」の財務、送金した献金の監査請求をし、調査を求める12人の署名をした嘆願書を出したが、受け入れられなかった。これに対して韓国及び日本の「統一教会」(統一協会)幹部は、天地正教の完全支配を目論み、教団内の旧・天運教系幹部主導の体制に不満を持つ「統一教会」(統一協会)系幹部を扇動し、教主の追い落としを図った。

文鮮明は、777双で、アメリカの統一神学校を出て、当時役職に就いていなかった松波孝幸(後に原理研究会会長)を天地正教の会長にさせ、教主制度を廃止。12人の嘆願書を出した人たちは、皆、左遷された。しかし、この処置は信者の多くに不信感を抱かせ、信者数は激減した。

その結果、天地正教は教団存続を断念。1999年3月 天地正教は、松波会長の申し出(和合宣言文)という形をとって、事実上、「統一教会」(統一協会)によって、吸収合併される。ただし、法人としては現在も存続している。「統一教会」(統一協会)・天地正教側は法人の解散を望んで信者の署名活動まで行ったが、文化庁が乗っ取りによる教団の吸収合併という前例ができることを嫌ったためといわれている。(注1)

 これを統一教会反対派は「1998年の内紛」と呼んでいる。これらの事実関係を明らかにすることは本稿の目的ではないが、1999年3月22日に天地正教の松浪孝幸会長が日本統一教会本部を表敬訪問し、「天地正教として今後さらに統一教会と協力関係を進めたい」という旨の申し入れをなし、後に4月3日に発表された「和合宣言文」によって事実上、統一教会に吸収合併されたことは事実であり、この「和合宣言文」は『日本統一運動史』にも全文掲載されている。

 率直な言い方をすれば、天地正教は統一教会側の事情で生まれ、統一教会側の事情で消滅したことになる。生まれたときの事情は「統一原理の仏教的表現による日本文化への土着化」にあったと思われるが、消滅する際にはこれとは全く別の力学が働いたと推察され、先祖供養や霊障からの救いに代表されるような土着の宗教的欲求に応えるための別の装置が準備されたわけではなかった。すなわち、かなり明確な教義と儀礼、そして相当数の信者数と全国的な組織を有していた教団が、ある日突然消滅したのである。このことの反動はかなり大きかったものと思われる。

 川瀬カヨの娘で、天地正教の二代目教主であった新谷静江は、教主の地位を追われた後、一部の信者を引き連れて別の宗教団体「海命寺・冨士の会」を創設した。天地正教の信者たちの大部分は統一教会に入会したか、あるいは戻ってきたものと思われ、統一教会に繋がりきれない人々は離脱したと推察される。

 結果的に、天地正教消滅以降は、日本の土着の宗教性からくる欲求は宙に浮いた状態となり、それは別のところに求められなければならなくなった。私の見解としては、そのような日本の土着の宗教的欲求を受け止める役割を果たすようになったのが、清平役事であるということになる。

(注1)Wikipedia「天地正教」より。

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