日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ12


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 このように、立正佼成会から多くの人々が統一教会の修練会に参加しました。この写真は第1期特別修練会の発会式(1963年3月1日)の様子ですが、この場所は立正佼成会本部の前なんですね。この写真には、庭野日敬会長、西川先生、久保木会長、周藤先生などが写っています。このように、多くの立正佼成会の青年たちが、庭野日敬会長の祝福のもとで、統一教会の修練会に参加したわけです。

 ここまでトップとつながったということは、もしかしたら立正佼成会が教団としてそのままメシヤにつながるという道もあったかもしれません。この当時の人に話を聞くと、「当時は霊的になっていて、自分でもよく分からない」とおっしゃるんですが、結果としてどうなったかというと、立正佼成会側も自分の信徒を盗られるという前提で修練会に送ったわけではないわけです。そこで反共思想を学んで帰ってきて欲しいというのが、立正佼成会側の動機だったわけです。

 ところが統一教会側は、修練会に参加した者たちをどんどん自分の信徒にしていくわけです。それで教団内で問題化し、信者は立正佼成会を選ぶのか、統一教会を選ぶのかという、二者択一を迫られるようになります。その結果、一部は統一教会に入教し、一部は立正佼成会に戻っていくということになり、この段階では「教団復帰」というところまでは行かずに、立正佼成会の優秀な若者たちが、その信仰を背景として、統一教会の草創期を作り上げたということになりました。これが日本における仏教と統一教会の最初の出会いということになります。

 それでは、最初に出会った仏教がなぜ立正佼成会だったのでしょうか? このことを今になって分析してみると、ある程度納得できる部分があります。まず、浄土系が来世での救済を説くのに対して、日蓮系は現世で救済される道を説くという特長があります。ご存知の通り、立正佼成会は日蓮系の新宗教です。そして日蓮は個人だけでなく国家や世界の救済も説いており、「立正安国論」には一種の終末観と国家観があります。その意味で日蓮宗は仏教の中では統一原理の立場に近いのです。

 そして開祖である庭野日敬氏は、個人救済から社会全体の救済へ信仰の理念を発展させ、社会奉仕を目的とする「明るい社会づくり運動」を展開しました。つまり、社会に働きかけて地上天国を創るというわれわれの教えと近いものを持っていたわけです。

 さらに、庭野日敬氏は他宗派との宗教協力にも取り組み、日本宗教連盟理事長などを歴任しましたし、世界宗教者平和会議(WCRP)のアジア部門に当たるアジア宗教者平和会議(ACRP)を創立するなど、超宗教運動を熱心にやった人なんですね。ですから、お父様と通じるところのかなりあった宗教指導者ではなかったかと思われるわけです。ですから、もっと幸運な出会いをしていれば、もしかしたら教団全体がメシヤにつながったのかもしれません。

 立正佼成会の会員綱領は次のようなものです。
「立正佼成会会員は、本仏釈尊に帰依し、開祖さまのみ教えに基づき、仏教の本質的な救われ方を認識し、在家仏教の精神に立脚して、人格完成の目的を達成するため、信仰を基盤とした行学二道の研修に励み、多くの人々を導きつつ自己の練成に努め、家庭・社会・国家・世界の平和境(常寂光土)建設のため、菩薩行に挺身することを期す」

 これは我々の精神と結構似ていますよね。ですから、立正佼成会の信者たちが最初につながってきたというのも、ある程度の必然性があるのではないかと思います。

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 次に、未来に関して考えてみますと、仏教には「末法思想」と「弥勒信仰」というものがありますので、この問題をどう理解するかということが重要になってきます。末法思想の基本的な考え方は次の通りです。

 お釈迦様が亡くなって1000年間は、「正法(しょうぼう)」の時代といって、仏の教え(教)と修行(行)と悟り(証)がすべて備わっている時代であるといわれています。次の1000年が「像法(ぞうぼう)」時代といって、教えと修行はあるが悟りを開く者がいない時代とされています。そして、その後10000年が「末法(まっぽう)」の時代であって、教えのみがあって、修行も悟りもない時代であるとされています。

 この「末法」というのは一種の終末論でありますから、その時代がいつなのかということと、我々の終末論と整合性があるのかということが、教理的には問題となるわけです。そこで最初の問題となるのが、そもそもお釈迦様が亡くなったのはいつ頃なのかということです。実は、釈迦の入滅年代に関しては学問的にも諸説ありますので、なかなか難しいんです。一番古い説が、紀元前949に亡くなったとする説です。昔の人々はこの年代を信じていたので、平安時代の末期に1052年から末法時代に入るということで、「末法思想」が広まっていったわけです。

 ところが近代の研究では、お釈迦様はそんなに古い年代の人であるとは考えられていません。紀元前485年ごろに入滅されたというのが、近代の研究で支持されている年代です。これによれば、そこから2000年経った16世紀半ばから、末法の世に入るということになるわけです。

 原理的には「6数復帰の法則」により、BC6世紀ごろにお釈迦様が生まれたとみるのが妥当なので、紀元前560年~480年ごろに生きた方であろうという現代の研究の結論が正しいと思われます。この時代は「歴史の枢軸期」とも言われ、世界各地で多くの思想家や哲学者が出現した時代でした。ですから、東洋においてメシヤを迎えるための準備として、儒教の孔子や仏教の釈迦が現れたと、原理的には見ています。

 本来ならば、イエス様の時代に仏教はメシヤと出会わなければならなかったわけでありますが、イエス様が十字架にかかることにより、摂理が失敗してしまったので、そのときには出会うことができませんでした。そこで、キリスト教は西に、仏教は東に進んで行って、16世紀に東アジアで仏教とキリスト教が出会うことになります。ですから、16世紀ごろになると日本にも中国にもキリスト教が伝えられてくるわけです。朝鮮には中国経由で入ったのでこれより少し遅くなります。

 ちょうどそのときが末法時代なので、仏教の法灯が消えかかるころに、キリスト教と出会うところに、摂理的な意味があるんではないかというのが、実は私の考えではなくて、竹内清治先生の説であります。竹内先生の著書『統一原理と仏教』によれば、以下のように解説されています。

「イエス様の十字架の死によって、その福音と結ばれる道を塞がれた仏教は、しかし、主の愛の犠牲に呼応するかのごとく、自己の悟りの境地のみを求める小乗仏教から、慈悲心によって他に尽くそうとする大乗仏教へと成長し、それにより、西に回って渡来するキリスト教が、アジアの山河に至るまで、民の心をさらに護り育てようとしたのではないか。そして、東へ東へと向かったのは、極東に降誕される再臨の主に、今度こそ相まみえて、その宗教的使命を全うするためではなかったか。

 こう考えると、仏教がその法力を失う末法の時代に入って、法の燈火がまさに消えかかっていた16世紀にキリスト教との出会いがあったという事実にも、憐れみ深き天の導きが背後にあると感じられてなりません。」(竹内清治『統一原理と仏教』p.120)

 仏教がメシヤを迎えるための宗教であり、最終的にはキリスト教と出会って再臨主を迎えなければならないという観点から解釈すると、こういうことになると思います。

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