日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ08


 平安時代中期になりますと、日本の仏教にある大きな変化が起こってきます。「末法思想」と呼ばれるものが生まれるようになり、「浄土信仰」というものが出現します。平安時代中期になりますと、僧の世俗化が進み、天変地異も頻発したことから、人々は「末法の世」であることを強く意識するようになりました。この「末法の世」とはどういう考え方であるかというと、お釈迦様が亡くなってから2000年経つと「末法の世」に入ると信じられていたわけです。当時の計算では永承7年(西暦1052年)に末法の第一年を迎えるんだと信じられていたわけです。この計算法で行くとお釈迦様が紀元前9世紀くらいの人物になってしまい、いまの学問的定説とはだいぶ違うのですが、当時の計算法ではこのように考えられていたので、1052年が近づいてくるとだんだん末法の雰囲気が当時の日本に満ちていったわけです。

 938年頃には空也という人が都の市中で念仏信仰を広めました。985年には源信が『往生要集』を著しました。このようにして、浄土信仰と末法思想が民衆の間に広まっていくことになります。では浄土信仰とは一体何かといえば、念仏を唱えることによって、阿弥陀如来の極楽浄土に往生できるという信仰のことです。もともとあった仏教とどこが違うかというと、そもそも仏教は修行をして悟りを開くという自力型の宗教でした。ところが末法になりますと、まともに修行ができる人はいないし、僧も堕落しているという状況ですから、ましてや一般大衆は絶望的だということで、ここから救われるのに、自力で救われるということはほぼ考えられなかったわけです。そこで、なにか簡単な行をする、たとえば念仏を唱えるというような一つの行をすることによって、他力で救済されるという考え方が受け入れられるようになったわけです。つまり、このときから個人の救済を説く民衆の宗教に仏教が変わっていったということです。

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 平安中期に現れた有名なお坊さんに源信という人がいます。この人は比叡山で天台教学を学んだ人ですが、高位の僧になるよりも、仏の教えを学びたいと遁世しました。彼は山を下りて、念仏と写経の日々を送り、43歳で『往生要集(おうじょうようしゅう)』という本を書きます。この『往生要集』とは何であるかというと、仏教にはたくさん経典がありますが、160余りの経典から極楽浄土について書いてあるところを抜き出し、さらに地獄について書いてあるところを抜き出したわけです。それを分かりやすくまとめて、極楽浄土はこんなところですよ、地獄はこんなところですよ、と教えたわけです。『往生要集』が有名になったのは、その冒頭に生々しい地獄の様子が書いてあったからなんですね。そしてこの地獄を逃れるためには、念仏しかないと勧めました。こうして彼は浄土教が発展する基礎を築きました。それが後に法然や親鸞に影響を与えました。

 平安末期から鎌倉時代にかけて現れた「鎌倉新仏教」と呼ばれる一連の現象の背景と特徴をまとめると以下のようになります。11世紀中頃から、政治形態が変化し、武士政権へと移行して行きます。その中で権力闘争が激化し、殺し合いがたくさん起こったので、人々の不安が増したという社会背景がありました。そうした中で、それまでの官僧を中心とした仏教から脱却し、国の護持から民衆の救済に仏教の目的が移っていったのです。そして比叡山で仏教を学ぶんだものの、その比叡山が世俗化して堕落していたという現実に幻滅して、「遁世僧」となった者たちを中心として、日本人を宗祖とする新しい仏教が出現したわけです。それらを一般に「鎌倉新仏教」と呼んでいるわけです。

 鎌倉新仏教には大きく分けて三つの流れがあり、浄土系と日蓮系と禅系に分けられますが、どれも非常にシンプルになっていくという特徴があります。これを「易行の専修」といいます。何か一つのことに集中すれば救われるんだ、ということです。ですから多くの戒を守り厳しい修行をして悟りを開くというような複雑なことは言わないで、「これさえやれば大丈夫!」ということを多くの人が主張するようになるわけです。浄土系は何と言ったかといえば、とにかく「南無阿弥陀仏の念仏を唱えよ!」と言ったわけです。念仏に集中したわけですね。日連系の場合には、「南無妙法蓮華経のお題目を唱えよ!」と言ったわけです。「南無妙法蓮華経」は、念仏ではなく「お題目」というんですね。とにかくお題目を唱えれば救われると言いました。禅宗の場合には、ただひたすら座って、「座禅に専念せよ!」と言いました。

 このように、従来の貴族や僧侶にのみ可能な複雑な理論や修行が廃されて、念仏や唱題のように易しい行に専念することで十分とされ、それによって仏教が民衆のものとなっていくわけです。すなわち、民衆を相手にしているので、救いの方法が単純化され、シンプルになっていったというのが鎌倉新仏教の特徴ということになります。

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 さて、法然と浄土宗について簡単にまとめます。法然(1133~1212)は平安末期から鎌倉時代にかけて生きた人で、例によって、比叡山で天台教学を学んだのでありますが、『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』を読んで、念仏こそ救いの原点であると確信するようになり、「専修念仏」という考えに行き着きます。そこで43歳で比叡山を下山して、浄土宗を開きました。1198年『選択本願念仏集』を著して、念仏を体系化しました。ところが、この新しい仏教は、ちょうどプロテスタントがカトリックから迫害されたのと同じように、権威である比叡山から迫害されるわけですね。法然が74歳のとき、既に彼の晩年でありましたが、比叡山から弾圧を受けて、朝廷によって讃岐の国に追放されてしまいました。このように、法然の浄土宗は大変大きな迫害を受けます。

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 この法然の弟子が親鸞(1173~1262)という人です。親鸞は法然よりも30歳年下です。ということは、法然は晩年になって迫害を受けるわけでありますが、親鸞自身が迫害を受けたときはまだ若かったわけです。この人はもともと比叡山で20年間修業した人だったんですが、法然の「専修念仏」の教えに感銘を受けて弟子入りしたところ、念仏に対する弾圧に巻き込まれ、越後の国(現在の新潟)に流され、強制的に還俗させられるわけです。「還俗」というのは僧侶を辞めて一般の衆生に戻るということです。彼は結婚して妻子を持つようになります。

 僧侶でありながら妻子を持つということは、当時はものすごいスキャンダルなんですね。言ってみれば「堕落した」という感じです。その体験、すなわち自分は僧侶でありながら妻を持ってしまった、そして子供をつくってしまったということで、僧でもなければ俗人でもない、「非僧非俗」という矛盾に満ちた生涯を迫害の中で送っていくわけです。そうすると、修行をすることによって自力で悟るという考え方にはならないで、こんなに罪深い自分でも救ってくださる阿弥陀如来様の大きな恩恵を強調する、「他力信仰」に傾いていくわけです。「絶対他力」って聞いたことありますか? この「絶対他力」というのは、迫害によって強制的に還俗させられて、僧侶でありながら結婚してしまったという、いわば親鸞の罪意識のようなものから芽生えてきた信仰であると言えます。すなわち、他力と信を重んずる信仰ということになります。親鸞の話を聞いていると、キリスト教でいえばアウグスティヌスのような感じがします。

 浄土真宗の特徴は、「絶対他力」にあります。この講義の初めに私は、仏教は自力型の宗教であると言いました。それが1000年をかけて日本にやってきて、紆余曲折を経ながら、最後は「絶対他力」まで行ってしまうのでありますから、宗教とはどれほど変わるものなのかという良い例だと思います。

 親鸞は、他の宗派の開祖たちと違い、救われるべき衆生と同じ俗世間に身を置き、凡夫の苦しみを味わいました。そこから「絶対他力」の信仰が生まれたわけです。阿弥陀如来の立てた本願により、阿弥陀如来を信じたその瞬間に極楽往生が決定する、という信仰です。親鸞といえば『歎異抄』が有名ですが、これは親鸞自身の著作ではありません。彼が90歳で没した後に、弟子である唯円によってまとめられた法語集です。親鸞の人間的魅力が現れている本です。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉は非常に有名です。これを悪人正機説といいます。阿弥陀仏が衆生を救おうとする願いは、善人でさえ成仏させるのだから、他力本願を信じる悪人は当然成仏できるという意味です。善人は自力で悟ろうとしますが、悪人は他力に頼るしかないので、もっと成仏できるのだということです。

 このように仏教は浄土真宗に至って、修行型・自力型の宗教から救済型・他力型の宗教に完全に変容してしまいました。

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