日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ01


 今回から、「日本仏教史と再臨摂理への準備」と題する新しいシリーズの投稿を開始します。家庭連合(統一教会)の信仰はキリスト教の流れをくむものであり、『原理講論』の内容もキリスト教の組織神学の体裁を取っていますが、日本において最も影響力のある宗教といえば何といっても神道と仏教であるため、統一原理と仏教の教えのかかわりは、日本宣教においては一つの重要なテーマとなります。

 私が地方に出かけて行って講義する中でリクエストされた内容の中に、日本の仏教史と再臨摂理の準備はどのように関わるのか教えて欲しいとか、日本の仏教には多くの宗派があるけれども、それぞれどんなことを信じているか知りたい、といった要望がありました。そこで私なりにいろんな本を読んで勉強してまとめて、講義した内容を起こしたものがこのシリーズになります。仏教の本といっても、あまり難しい教学の本を読んでも分かりやすく解説することはできないので、入門用の易しい解説書を中心に調べました。

 また、統一教会の中で「仏教の権威」といえば竹内清治先生です。竹内先生の書かれた『統一原理と仏教』は、ちょっと古い本なんですが、こうした本も読みながら、仏教信仰と私たち統一教会の信仰が最終的にどのようにつながるのか、ということを明らかにすることを目指して、お話しさせていただきたいと思います。

 仏教についていろんな本を読むと、仏像の話とか、お寺の造りの話とか、宗派によるお仏壇の違いとか、戒名や作法の話の違いなど、実にいろいろなテーマが扱われているのですが、そういうことはちょっと置いておいて、信仰の本質が何なのかということに焦点を当ててお話をしてみたいと思います。

 では、仏教とはそもそもどんな宗教かということなのですが、このパワーポイントに示されているのは基本中の基本です。仏教を開いたのはお釈迦様と言われていますけれども、いわゆる本名は、ゴータマ・シッダールタということになります。釈迦牟尼というのは、釈迦族、インドの言葉でいえば「サーキャ族」の聖者という意味です。いつ頃の人かといえば、紀元前4~5世紀頃の人というのがいまの学問上の定説になっております。ところがこの定説にも100年くらいの幅がありまして、学問的にも、本当にいつ頃の方なのかということは分かっておりません。もっと古い伝承には、紀元前9世紀くらいの人だったというものもあり、かなりいろいろな説があるということになります。ですから、イエス様よりも生誕の年に関しては諸説あるということになります。

 お釈迦様は、インド北部にあるサーキャ族の首都カピラヴァストゥというところで、第一王子として誕生したと言われております。ですから、小さな国とはいえ、王宮の王子様だったわけです。しかし、生まれて7日目にお母さんがなくなってしまいます。母がいなかったので、小さい頃は叔母さんに育てられたそうです。それもあってか、お釈迦様は小さいころから人生をはかなんで、けっこう厭世的な子供だったと言われています。第一王子でありますから、王位を継がなければならないのに、お釈迦様は子供のころからどこかこの世離れしたところがあったので、国王であるお父さんは、お釈迦様が出家してしまうのをなんとか防ごうとして、王宮で飲めや歌えの大騒ぎをして楽しくしながら、なんとか王位を継ぐように仕向けたということです。そして、16歳でヤソーダラという名前の美しい娘と結婚させます。そして、29歳のときには子供も生まれています。

 しかし、彼にはもともと宗教的な感性があったんでしょうね。これは非常に有名な話でありますが、王宮に四つの門があって、遊びに出かけなさいと言われたものですから、東の門から出たら、老人がいたわけです。それを見て、「ああ、誰しも老いるんだ」と思って絶望的な思いになったというわけです。今度は南から出たら、病人がいました。それを見て、「ああ、みんな病気になるんだ」と思って絶望的な思いになります。西から出たら、誰かが死んでいました。「ああ、みんな死ぬんだ」と思って、また絶望的な思いになります。そして北から出たら、立派なお坊さんがいて、「ああ、この人は素晴らしい、自分も出家したい」と思うようになったという話です。お父さんとしてはお釈迦様に王位を継いでほしかったようなのでありますが、お釈迦様の心の中には、「出家したい、出家したい」という思いが高じていくわけです。

 そして、ついに29歳のときに白馬にまたがって、カビラ城を出てしまいます。決意としては、「最高の真理をつかむまでは城に戻らない」という覚悟をして、反対を押し切って出家しました。ちょうどこの時は、子供が生まれたばっかりでした。ですから、愛する妻もいて、生まれたばかりの子供もいる状態で、王子として暮らしていた城を出て、真理探究の道に出たということになります。

 その後、6年間にわたって修行の生活をするわけでありますが、近隣の国に「マガタ国」という国があって、その王舎城というところに入って行って、先生を探し求めます。当時のインドの宗教は「バラモン教」というのでありますが、いろんな先生がいて、たとえば瞑想のやり方を教えてくれる先生がいました。当時からヨガのように、「禅定」(座禅瞑想)という習慣はあったわけです。禅定の目的は、全ての執着を捨てることにありました。そこで釈迦様は禅定を行う先生のところに弟子入りするわけですが、やはり天才的な宗教者だったんでしょうね、すぐに無執着の境地に到達してしまって、先生の境地に簡単に到達してしまうものですから、これ以上学ぶことはないということで、誰にも師事することなく、自ら苦行の生活を始めます。

 これは超人的な苦行の生活であって、後にお釈迦様は、自分は断食をはじめ、「他の誰よりも苦しい修行を行った」と語っています。すなわち、難行苦行ということで、一生懸命自分の肉体を苛めて、修行をしぬいたということです。でも、どんなに修行をしても悟れなかったということなんですね。

 そこでお釈迦様は6年近くにわたる苦行生活をやめて、禅定、すなわち深い瞑想に入ったわけです。6年近くにわたる苦行をやめたときに、スジャータという少女が「乳粥」をお釈迦様に出して、それが断食で傷んだ体を癒してくれたので、非常に良い供養になったというのは有名な話です。お釈迦様が菩提樹の下で瞑想をしているときに、次々に恐ろしい悪魔が現れて、お釈迦様に悟りを開かせまいとして誘惑しました。あるときは恐ろしい形相で、「お前なんか悟る資格はない」と脅したり、あるいは美しい女性の姿で誘惑したりしたそうであります。そのようなさまざまな雑念、悪魔の誘惑を打ち勝って、瞑想に入って8日目の12月8日の朝に、ついに真理に目覚めて「仏陀」となられたわけです。これを「成道」(じょうどう)されたと言います。このようにして、長年の修業が恐らく蕩減条件となったのでしょう、その土台の上に瞑想をして、真理を悟られて、それから説法の旅に出発されたということになるわけです。

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