韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ17


 韓国独立運動の中で共産主義運動とはどのようなものであったのか、最初に概観を説明します。朝鮮共産党(「第一次党」と呼ばれる)が結成されたのは、1925年4月18日のことでした。しかし、同じ月に治安維持法が公布された関係もあって、間もなくその大部分が日本政府によって検挙されてしまいます。事後第四次党まで再建が試みられたのですが、都合6回に及ぶ大検挙を受けて党は若芽のうちに崩壊してしまいました。したがって、共産主義運動が国内の独立運動そのものに実効を挙げた形跡は、ほとんど認められないわけです。しかし、上海臨時政府に与えた李東輝一派の影響など、海外における独立運動に与えた影響は計り知れないものがあります。影響と言っても、マイナスの影響がものすごく大きいのではありますが・・・

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 その中心人物を三名挙げるとすれば、一人目がこの李東輝(이등휘)という人であります。この人は、韓国の共産主義者の草分けのような人であります。咸鏡南道の端川というところに生まれ、旧韓国武官学校を出て軍人となるわけでありますが、1907年の韓国軍解散の時には江華島鎮営にあって叛乱を指導しました。後に、安昌浩の啓蒙思想に感化され「新民会」に加盟しました。1910年の日韓併合後は寺内総督暗殺未遂事件に関与し、検挙の手が伸びると、シベリアに逃れて付近の居留民や政治亡命者らの指導者となっていきました。

 やがて1917年にロシア革命が起きて、レーニンの労農政府が成立しますと、ボルシェビキ(注:ロシア社会民主労働党が分裂して形成されたレーニン率いる左派の一派のこと。ロシア語で「多数派」の意)がやってきて、李東輝は彼らから共産主義の理論を注入されて熱狂的な信者となり、かつその援助の申し入れに勇気づけられました。彼はロシアの援助によって朝鮮を独立させることを決意するわけです。

 そして1918年6月には、李東輝らがハバロフスクで「韓人社会党」を結成します。1919年3月に「三・一独立運動」が起こると、シベリアの運動家はウラジオストックでシベリア政府の樹立を決議したんですが、間もなく上海臨時政府が誕生したので、李東輝も一派を率いて上海に移動することとなりました。そして、そこで混乱を引き起こすわけです。

 李東輝は「臨政」の国務総理に就任し、主導権の掌握と運動路線の左傾化に努め、結果的には「臨政」内部の紛争を助長しました。コミンテルンは1920年秋に一時金として臨政代表の韓馨権に金塊60万ルーブルを与えました。そのうち40万ルーブルが李東輝の秘書をしていた金立に渡されたのですが、李東輝は「臨政」に一文も入れず、それを資金として翌年(1921年)、上海で「高麗共産党」の創党を宣言したのです。ですから、彼は「臨政」のためというよりは、一貫して共産主義の目的のために動いていたと言えます。しかし、可哀想なことに、李東輝はソ連に忠誠を尽くしたにもかかわらず、最終的にはソ連に裏切られて1935年に失意のうちに死んでいったということです。結局、彼は第二次大戦後まで生き延びることができなかったので、戦後の北朝鮮の指導者になることはできませんでした。

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 二人目の共産主義運動の指導者が、朴憲永(박헌영)という人です。この人はモスクワのレーニン大学で学んだインテリであり、エリートでした。上海の共産青年運動幹部として知られ始め、韓国の国内で「高麗共産党青年同盟」を組織して、「赤い星」と呼ばれたくらいでありますから、共産主義者のスターだったわけです。しかし、韓国の国内で活動していたため、日本の官憲によって逮捕され、解放までに通算10年の獄中生活を送ることになります。やくざの世界でも何年ムショに入ったかで格が決まるわけでありますが、政治的な理由で弾圧されて10年刑務所に入っていたということは、共産主義者としては「勲章」であるわけです。したがって彼は、共産主義者としては尊敬される経歴の持ち主であり、レーニン大学で学んだエリートであったため、本当はこの人が北朝鮮の指導者になってもおかしくなかったわけです。でも、ならなかったということなのです。

 彼は1945年9月12日、これは第二次大戦終了後のことでありますが、朝鮮共産党を再建して書記長となり、1946年10月には朝鮮労働党を創党します。彼は半島の南側で共産主義運動を開始したわけです。しかし、解放直後の韓国ではアメリカが軍政を敷いており、共産主義者を取り締まっていました。1946年8月に軍政法違反の疑いで彼に対する逮捕状が出たため、彼は地下に潜って活動し、10月には追求の手を逃れて越北しました。北に移動したということですね。有名な共産主義者が南からやってきたということで、彼は北で受け入れられます。

 1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国が独立を宣言すると、朴憲永は副首相兼外相に就任したのですが、もうこのときには既に金日成が実権を握っていて、南で活動していた朴憲永は、北では何の基盤もない「根無し草」であったのです。彼は有名で尊敬されていた共産主義者だったので、次第に金日成にとって目障りな存在となっていきます。そして1953年、「反動分子・米帝のスパイ」の罪名を着せられて逮捕され、55年に処刑されてしまいました。共産主義の世界というのは恐ろしいですね。

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 三人目の共産主義運動の指導者が、呂運亨(여운형)という人です。この人も、中国に亡命して、南京の金陵大学で学んだということですから、かなりのインテリですね。彼は上海で設立された大韓民国臨時政府に参加し、上海の高麗共産党に入党することにより、共産主義者としての実績を積んでいきます。1923年に上海で逮捕され、韓国の国内で獄中生活を経験しています。1933年には朝鮮中央日報社の社長に就任したということですから、言論の分野で活躍したインテリということになります。

 1945年8月15日の日本敗戦の報を受けて、その日のうちに彼は安在鴻などとともに「朝鮮建国準備委員会」を結成しました。しかし、この独立宣言は連合軍によって否定されてしまいます。連合軍は韓国人による政府の樹立を認めずに、アメリカ軍による軍政を開始したのです。最終的に彼は1947年7月19日に暗殺されたため、戦後の国家樹立まで生き延びることはできませんでした。

 これら韓国独立運動の共産主義者のリーダーたちは、実は金日成よりも年上で、はるかにインテリ(モスクワや南京に留学)で、共産主義者としての実績も上だったのです。にもかかわらず、彼らは解放後に共産主義の国として建てられた北朝鮮の指導者になることはありませんでした。金日成の抗日独立運動の実績は、実は大したことがなかったにもかかわらず、結果的には彼が北朝鮮の指導者になりました。どうしてこうなったのかについては、後に説明します。

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