書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』45


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第45回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第5章 日本と韓国における統一教会報道」

今回から新しい章に入る。第5章の「日本と韓国における統一教会報道」は、日本の朝日新聞と韓国の朝鮮日報における統一教会関連の記事を検索することを通して、統一教会の活動が両国のマスメディアによってどのように報道されてきたかを分析することを目的としている。櫻井氏が両国の報道を比較して明らかにしたいのは、「日本と韓国における統一教会の活動内容の相違であり、それに応じた社会の反応、及びメディア報道の差異」(p.170)であるとされる。彼は全般的な傾向として、「日本の統一教会問題とは社会問題であるのに対して、韓国では宗教問題にとどまる」(p.170)と分析している。櫻井氏によれば、こうしたのマスコミ報道の違いは、日本と韓国における宣教戦略の違いに起因しているのだが、そのことはこれまで十分に明らかにされてこなかったという。要するに自分の新しい発見だと言いたいのだが、こうした彼の結論が正しいかどうかはこれから順を追って分析することにして、まずは分析の方法論の問題から検討することにする。
統一教会に関する新聞報道の分析をすること自体は、有意義な調査であると言える。しかしながら、より客観的で公正な分析をするためには、たとえ手間暇がかかったとしても、例えば五大紙すべてを検索して論調を比較するなどの手広い調査を行うべきだったのではないだろうか。櫻井氏が日本における新聞報道を朝日新聞に限定して調べている時点で、そこに「なにか作為的なものがある」とか、少なくとも「偏った分析である」という誹りは免れないであろう。

櫻井氏が日本の朝日新聞を資料として選んだ理由としては、「日本での統一教会問題を最初に報じており、一九八〇年代に『朝日ジャーナル』でも統一教会特集を組むなど、他紙よりも積極的に取りあげている」(p.172)ことと、データベースでの検索のしやすさなどの技術的な理由を挙げている。韓国の朝鮮日報を選んだ理由もほぼ同様である。私は韓国の新聞が統一教会についてどのように報じているかを比較検討したことがないので、朝鮮日報のチョイスに関してはコメントできないが、少なくとも朝日新聞に関しては、日本において統一教会を最も批判的に扱ってきたメディアと言って差し支えないだろう。

1967年7月7日付朝日新聞夕刊の「親泣かせの『原理運動』」という見出しの記事が、日本で初めて統一教会を取り上げた新聞報道であることに象徴されるように、朝日新聞は一貫して反統一教会の立場で報道し続けてきた代表的なメディアである。日本におけるマスコミの統一教会報道は全般的に厳しく批判的であるとはいえ、朝日新聞は群を抜いているといってよいだろう。そうした特徴を持つ朝日新聞を資料として報道の分析を行えば、統一教会に対して批判的な報道ばかりが出てくるのは至極当然であると言える。櫻井氏はこれを、社会的に問題のある統一教会を社会の公器である新聞が叩いたという構図でとらえようとしているが、これは物事の一面しか見ていないと言える。朝日新聞が統一教会を批判する背景には、イデオロギー的な動機があることを見落としてはならない。

朝日新聞はリベラルで左寄りの新聞である。統一教会は反共主義を掲げる宗教であり、冷戦時代には徹底して共産主義と戦ってきた。したがって、朝日新聞と統一教会はイデオロギー的な敵対関係にあったのである。特に「スパイ防止法制定運動」を巡っては、統一運動と朝日新聞は明確な対立関係にあった。イデオロギー的に敵対する相手に対して批判的な報道をするのは常識であり、朝日新聞の統一教会報道は少なくとも社会の公器としての新聞の平均的な報道内容とは言えないものである。

こうした問題点を前提として、時代を追いながら展開される櫻井氏の新聞報道分析を評価してみることにする。最初の年代区分は、1950~60年代である。日本で統一教会問題が最初に新聞記事となったのは、前述の「親泣かせの『原理運動』」という見出しの記事(1967年)であり、「家庭を破壊された」「子供が洗脳された」という親の訴えが紹介されている。この年代区分の韓国における報道は1955年5月の梨花女子大事件に関する記事なので、日本と韓国では初めての報道に12年の開きがあることになる。統一教会が日本に宣教されてしばらくは開拓期であり、目立たない小さな集団であったことから、マスコミの注目を浴びることもなかったのであろう。このような時間差はある意味で当然と言える。梨花女子大事件は韓国社会に大きな衝撃を与えた事件であったが、朝日新聞はこれを報じていない。理由は、当時まだ国交のなかった隣国の宗教問題にまで関心がなかったのではないかと推察される。逆に日本に統一教会の宣教がなされ、そこで社会問題化していることを、韓国の朝鮮日報は報道している。アメリカで教勢を拡大していることも朝鮮日報では報じられており、自国が生み出した宗教が世界でどのように受け止められているのかに関心があったと思われる。

櫻井氏が注目しているのは、日本における統一教会報道が「家庭の破壊」や「洗脳」といった社会問題として扱われているのに対して、韓国における統一教会問題は「異端の教えを信じた」という宗教問題として扱われている点である。朝鮮日報の記事には、既存教会と統一教会の対話に関する記事もあり、「異端」という認識はあるものの、統一教会を基本的に宗教として扱っている点が日本と異なるのだという。朝鮮日報の記事の中には、キリスト教神学と関連付けて統一教会の是非を論じたものもあるという。日本では神学論争の内容が一般紙の記事になること自体が珍しいばかりか、統一教会の問題を神学的な問題として論じたような記事は皆無であると言えよう。その意味で、朝鮮日報の記事の内容は櫻井氏にとっては新鮮に映ったようだ。

これは日韓における統一教会の相違というよりは、両国のメディアの宗教に対する態度や考え方に起因するのではないかと思われる。そもそも日本では、キリスト教の神学論争が新聞のネタになったり、ある宗教が正統か異端かといったようなことが、メディアで問題にされること自体が考えられない。日本のメディアは徹底した世俗主義を貫いているので、宗教の最も本質的な部分である教えや神学の内容には踏み込まないという暗黙のルールをもっているように思われる。櫻井氏自身がこの章の冒頭で認めているように、日本のメディアが新宗教を扱うときには、宗教的世界観そのものを扱うのではなく、新宗教が社会との間で起こしている軋轢の部分に注目し、「社会問題」や「カルト問題」という切り口で批判的に扱うのが常であった。要するに日本のメディアは教義や神学にはハナから関心がないのである。

これに比べると、韓国のメディアは宗教問題の本質に迫る報道を積極的に行っているように思われる。神学的なテーマが韓国の新聞で取り上げられるのも、キリスト教徒が人口の約4分の1を占め(1980年代にはこの数値に達していると言われていた。現在は三割に達すると言われている)、牧師の社会的地位や発言力・影響力が日本よりもはるかに大きい国柄を反映しているのかもしれない。キリスト教の牧師が社会に向かって発言する以上、正統か異端かという問題は重大な問題であり、新聞記者も彼らの主張には耳を傾けることになる。その意味で、韓国では統一教会問題はまさに「宗教問題」なのである。

さて、櫻井氏は2つ目の年代区分を「1970年代」として、この年代の統一教会の特徴を「政治領域への参入」と位置付けている。韓国では朝鮮日報が「政治性おびる統一教会 勝共運動を標榜 農村・軍隊・公務員など 特殊地域で啓蒙も」という記事を出していることが紹介されている。一方、朝日新聞のこのころの記事は、統一教会とKCIAの関係を巡る記事が多いという。このころ米国では、ドナルド・フレーザー下院議員が統一教会を追求する議会活動を行っており、その中で彼は統一教会がKCIAの手先であるかのような主張を行っていたため、アメリカ発の話題を日本でも取りあげたものと思われる。櫻井氏は、朝鮮日報がフレーザー議員による統一教会の非難を報道しながらも、統一教会とKCIAの関係に関する記事が一切ないことを「不思議に思う」(p.177)とか「報道規制か自粛があったのだろうか」(p.178)などと述べている。

フレーザー委員会による統一教会に対する追及は、一つの迫害の事例として統一教会史の中で講義される内容となっており、特に朴普煕氏の証言を記録した『真実』という映像資料で記憶している教会員も多いであろう。もとよりKCIAと統一教会の間には組織的な関係はなく、フレーザー氏の主張は事実無根であった。それをもとに報道されたアメリカの情報に、統一教会に敵意を持っていた日本の朝日新聞が飛び付き、攻撃の材料として報道したという構図がある。ところが本国の韓国ではKCIAと統一教会には関係がないことは分かっており、フレーザー委員会の主張は信憑性がないと判断したからこそ、敢えて報道しなかったのではないだろうか。このように、各国における報道のあり方は、その国における統一教会の実態以上に、その国のメディアの関心のあり方や報道姿勢によって大きく左右されるととらえた方がよさそうである。

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