Web説教「メシヤと私」03


 前々回から「メシヤと私」と題するWeb説教の投稿を開始しました。1980年代に作られた「世にも不思議な物語的」なショートドラマ「善行銀行」のストーリーを紹介し、その背後には、日本人に広く共有された一つの世界観、宗教観である「因果応報」があることを指摘しました。これは良い行いをしてきた者にはよい報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがある、という仏教的な世界観です。

 こうした「因果応報」の信仰観には、いくつかの限界があるわけですが、その話に入る前に、旧約聖書をひもときながら、人間が神様の前に有罪となるか無罪となるか、罪が裁かれるのか許されるのかということが、必ずしも客観的な罪の重さだけで決まるものではないという事例を少し紹介してみたいと思います。

 仏教という宗教には、神様がいませんので、どちらかというと宇宙は客観的な法則によって支配されていると考える傾向があります。「カルマの清算」という法則があって、犯した罪の重さと同じ分だけの代価を払って清算するというのが基本です。

 しかし、ユダヤ教やキリスト教には創造主である神様がいらっしゃいますので、人間に罪があるかないかという問題も、神様との人格的な関係の中で決定されるわけです。ですから、神様がある罪を裁くのか許すのかを決定する際に、交渉する余地があるということになります。その代表的な例が、神様が罪深いソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしたときの、アブラハムとの会話です。この話は、旧約聖書の創世記第18章に出てきます。

 アブラハムは神様に対して、「もしあの町に50人の正しい者がいても、あなたは滅ぼすのですか?」と尋ねます。それに対して神様は、「もしソドムの町に50人の正しい者がいたら、私はそれを許そう」と答えるわけです。続いてアブラハムは、「45人ならどうですか?」と聞いて、それでも滅ぼさないという答えをもらうと、40人、30人、20人、10人とどんどん値切っていくわけですね。どうしてこういう交渉が可能であったかというと、それはアブラハムが神様の前に正しい人であって、相当な功労を立てた人物であったからです。そのような神様の信頼する人が神様に交渉し、とりなしをすれば、それによって罪が許されるということがあるわけで、決して客観的な罪の重さだけですべてが決まるわけではないのだということが分かります。

 私は学生時代に旧約聖書を熱心に読みましたが、これと似たような表現をいくつか見つけました。エレミヤ書とかエゼキエル書などの預言書は、だいたい罪深いイスラエル民族に対して神様が怒りの言葉を語っている内容が多いのでありますが、その怒りの表現の中にこういう言葉がありました。

 エレミヤ書15章1節に「たといモーセとサムエルとがわたしの前に立っても、私の心はこの民を顧みない」という表現が出てきます。モーセとサムエルといえば、神様の使いとして大活躍した預言者です。神様が信頼してやまない人々であるわけですが、そんな彼らがとりなしたとしても、許せないくらいにあなた方の罪は重い、ということが言いたいわけです。

 エゼキエル書の14章13~14節には、神様がイスラエル民族に審判を下そうとするとき、「たとえそこにノア、ダニエル、ヨブの三人がいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみであると、主なる神は言われる」と書いてあります。

 こうした表現から分かることは、たとえ罪深い存在であったとしても、神様の前に功労を立てた義人・聖人が神様に懇願してとりなせば、審判を思い直して許される可能性があるのだということです。つまり、客観的な罪の重さだけで裁きが決まるのではなく、功労を立てた人物のとりなしによって許されるということがあるのです。このことは非常に重要な観点ですので、覚えておいていただいて、話を元に戻します。

 「善行銀行」で表現されているような、「因果応報」の信仰観には、いくつかの限界があると申し上げましたが、大きく分けて三つを挙げることができるだろうと思います。

 第一の限界は、因果応報や自業自得では救われない人々がいるということです。世の中には、善を行いたくても行えない人がいるのです。罪を犯さざるを得ないような、極めて不遇な境遇に追い込まれている人、因縁や蕩減がとても重くて、罪の思いに拘束されてしまっている人、強烈な恨みを抱いて生きている人、自分の弱さに絶望している人など、悲惨な人がたくさんいます。その人たちに対して、「因果応報ですよ」「自業自得ですよ」と言っても救われないし、裁きにしか聞こえないわけです。これが、この教えの一つの限界であると言えます。

 二つ目の限界は、「自己義認」という問題です。「因果応報」や「自業自得」というのは、基本的に自力信仰です。自分の力でポイントを稼ぐことによって救われるという考え方です。それを励みにして一生懸命信仰生活をしたり、善行を積んだりするのは良いことなのですが、そうして努力した人ほど陥りやすい罠が、自分はこれだけやったのだから、救われて当然だとか、恵まれて当然だとか、思ってしまうということなのです。この典型的な例が、イエス様の時代のパリサイ人や律法学者たちでした。

 彼らは、ユダヤの律法を守ることに関しては人一倍努力していた人々でした。しかし彼らは、律法を守れない貧しい人々、取税人や娼婦といった人々を見下していたのです。つまり、「私はポイントが高い人、彼らはポイントが低い人たち、私は救われている人、彼らは救われない人たち」という発想になってしまっていたのです。これを「自己義認」と言います。彼らは自己義認によって、謙虚に神の声に耳を傾けるということができなかったために、イエス様を受け入れることができなかったのです。これは自分自身の小さな功労に執着するあまり、より大きな天の功労を持って来られたイエス様につながることができなかったのだということです。

 三つ目の限界は、誰が見ても正しい人であるにもかかわらず、その人が苦難を受けることがある、という問題です。因果応報であり自業自得であるならば、正しい生き方をした人はその報いを受けて幸福にならなければなりません。ところが実際には、正しい生き方をしているにもかかわらず、報われないばかりか、悲劇的なことが次々と起こる人生を送る人もいるわけです。そういう人生の不条理の真っ只中にいる人に対しても、因果応報と自業自得は説得力を持ちません。この、「どうして義人が苦難を受けるのか?」という非常に重い課題を扱った旧約聖書の書物が、「ヨブ記」でありました。ヨブの物語については、次回詳しく解説します。(次回に続く)

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