実況:キリスト教講座43


自然神学と啓示神学(6)

 次に福音派と自由主義の「人間観」を比較します。

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 キリスト以外の堕落人間一般をどのように見つめるかということでありますが、福音派の場合には原罪とか人間の本来的な罪深さというものをとても強調する傾向にあります。要するに、原罪によって人間は真っ黒に汚れているので、罪にまみれて真っ黒けで、善を行う力は一切ないととらえています。もう救いようがない堕落しきった存在ということでありますから、その堕落しきった人間がこざかしい理性を働かせて何か善なることをしようとしたとしても、まったく何の力にもならないということで、人間の理性の価値を否定する傾向にあります。したがって、教育よりも回心や救いといったようなものを強調します。すなわち、自力ではなく、他力によって救われる存在なんだという観点が非常に強いということになるわけです。

 私はがアメリカの神学校に行っていたころに、「フィールド・エデュケーション」という科目がありまして、教会訪問というのを体験しました。私たちは統一教会なんですけれども、近隣にあるキリスト教会に出かけて行って、礼拝に参加させてもらって、その様子を見せてもらうんです。そのときに福音派の教会を訪問したこともあるんですが、特に黒人の教会なんかに行くととても印象的ですよ。黒人の教会に行くと、女性が非常に元気なんですけれども、礼拝堂の特徴としては、ドラムとキーボードが置いてあるんですね。それで礼拝が始まったかと思うと、ドラムをたたきだして、キーボードが大音量で鳴って、もうミュージカルさながらの礼拝が始まるわけです。クワイアが発達していて、その中で音楽に乗って説教もするし、歌っているのか説教しているのか分からないような状態になります。そしてドネーションの箱が何回もまわってきて、何回も献金を入れないといけないような状況になります。それで、牧師一人がしゃべるんじゃないんですね。牧師が話している最中に、「皆さん、証しはないか?」と言うと、次々に女性が前に出てきて信仰の証しをするわけです。

 大体が女性ですから、台所で神と出会ったというような証しなんでありますが、その証はみんな同じパターンです。自分はキリストに出会うまでは本当に罪深くて暗黒の人生だった。ところがある日キリストに出会って、最低の状態から幸せの絶頂まで一気に引き上げられたという、ガラッと人生が変わったという証しなんです。理性によって少しづつ変化したということではなくて、神の力が介在することによって劇的にガラッと変わるということなんです。自分は回心によって、「他力」によって作り変えられたという信仰の証しを強烈にするわけです。ですから、結局人間は罪深いんだという、神の救いによってしか人間は変わらないんだという価値観です。なぜかというと、原罪にまみれているから、キリストの恵みによってしか救われないという価値観がそこにあるということなんですね。

 しかし、自由主義の場合にはそれほど暗い人間観を持っておりません。人間には善を行う力もあるんだということで、人間の本来的善性というものを強調します。そして人間の理性を肯定的に評価する傾向にあります。人間には理性というものがあり、理性によって正しい判断をすることが可能なので、教育が重要なんだと言います。「そんな原罪とか暗いことばかり言ってないで、もっと人間の本性を信じましょうよ」というような考え方を自由主義の方はするということです。

 ですから原理的に言うと、福音派というのは原罪とか堕落性本性というものを中心として人間を理解しているということです。それに対して自由主義というのは、堕落しているとはいえ、それでも残されている創造本性があるはずだということを信じて、それを中心として人間を理解しているということになります。この強調点がかなり異なっているということなんですね。

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 その次に他宗教に対する態度を比較します。福音派の方は、神の啓示は聖書にのみ記されていると信じておりますので、基本的に他宗教の価値は一切認めません。コーランの中にも仏典の中にも一切神の啓示はない、聖書だけ、福音だけ、ととらえるわけです。極めて排他的ということになります。したがいまして、他の宗教と対話をするとか、他の宗教の教えに神の啓示が含まれているなどということはおよそ想像することができないわけです。それに対して自由主義の場合には、神の啓示は聖書にのみ限定されないという立場なので、他宗教の価値を認め、対話しようとする傾向にあります。より寛容な心を持っているのが自由主義ということになります。 このように他宗教に対する態度も違います。

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 次に救済観です。救われるということをどうとらえているかということです。福音派の場合には、個人的な救いの体験、あるいは回心や清めの体験というものを非常に重要視します。先ほど言った証しの中で、自分がガラッと劇的に変えられたということを非常に強調するといいましたけれども、そのように個人の魂がイエス様との出会いによって救われる、あるいは清められる、方向を転換されるといったような、体験重視型の宗教であるということになります。

 福音派においてはいわゆる「新生体験」、つまり自分が生まれ変わったという体験を非常に重要視します。ですから、「あなたはいつ新生体験をしましたか? 証しをしてみてください」と言われて、即座に自分が生まれ変わった体験の証しが出来なければ、一人前の信者として認めてくれないという傾向にあります。逆にそういう証しを持っている人は、人前で堂々と何度でも証しをするようになります。

 それから、福音派の場合には、聖書に書かれている最後の審判とか、天国と地獄を文字通りあるととらえます。それから、ヨハネの黙示録(20:4-7)に出てくる千年王国の到来が間近であると信じることが多いです。皆さんは「ハルマゲドン」という言葉を聞いたことがありますか? 世の終わりがやって来るということなんですが、これは聖書に書いてあるんです。その聖書に書いてあることが文字通りに起こって、破壊の後に天国がやって来るというような超自然的な信仰というのは、聖書を文字通り信じる福音派の中に多く見られるものであるということになります。

 それに対して自由主義のキリスト教においては、個人の劇的な救いの体験というものはあまり重要視しません。何か一回きりの体験で人間がガラッと変わってしまうというようなことはあまり信じていません。そして聖書に出てくる最後の審判とか、天国と地獄といった内容に対しても懐疑的でありまして、そんなことが実際にあるとは信じていないわけです。基本的に、終末とか、ハルマゲドンとか、最後の審判というような出来事が、実際の歴史の一点に起こるとは信じていません。天国と地獄も、まあ人間の心の状態を象徴的に表現したものであって、実際に空間的に天国とか地獄といったものが存在しているわけではないと思っています。ですから、リベラルな人の信仰というのはそんなに劇的じゃないんですね。幼児以来、家庭環境の中で自然に信徒になった者が多く、宗教を倫理としてとらえる傾向にあるということです。

 自由主義の信仰の最も大きな特徴というのは、宗教を倫理に還元する傾向があるということです。つまり、宗教の価値をどこに見いだすかというと、「宗教というものは、特にキリスト教は、人間を倫理的にする。キリスト教を信じている人は悪いことをしない。これが要するに宗教の価値なんだ」ということなんです。これは要するに倫理的なものでなければ宗教として認めないということであり、もっとはっきり言ってしまえば、リベラルな人は常識的な宗教しか受け入れられないということでもあるんです。リベラルな人にとっては、宗教というものは、それをやっていれば人間が倫理的で正しく生きているということに価値があるのであって、それ以上のものを見いだそうとはしないということなんです。しかし、福音派にとって宗教とはまさに常識を超えたところ、超自然的な体験にあるんですね。ですから、救いというものに対して抱いている感覚も福音派と自由主義ではかなり違うということになるわけです。

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