実況:キリスト教講座44


自然神学と啓示神学(7)

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 次に福音派と自由主義の「信仰活動」を比較します。福音派の場合には、聖書学習会、祈祷会、伝道集会などを積極的に展開し、個人の回心を求める活動が積極的に行なわれます。つまり、福音派にとって人が救われるかどうかということは、今日どれだけのみ言葉が語られて、何人の聴衆が聞いて、何人がイエス様と出会って回心したのかによって測られるのであり、これ以外の方法によっては一切救いはもたらされないと考えていますから、下手な慈善活動をするよりもみ言葉をストレートに伝えなければならないと考えます。ですから、み言葉を直接語って、何人回心したかということが重要なので、とても福音派の人たちは伝道熱心です。その結果、教会がものすごく成長するということになります。

 それに対して自由主義というのは、個人の内面的な回心を求めた活動よりも、社会運動、慈善事業、政治活動、文化活動などに力を入れる傾向があります。つまり、個人がいくら劇的な体験をして救われたと感じていても、社会に矛盾があったらだめじゃないかということで、社会の中の貧富の差をなくしましょうとか、もっと福祉を充実させましょうとか、具体的に社会を良くする運動に力を入れていく傾向にあります。

 私たちの活動も、個人の救いという意味ではみ言葉を通して人を救うという側面があると同時に、地上天国実現が目標ですから、具体的な社会活動をしていかなければならないという両面があります。この二つの間の強調点が、福音派と自由主義では大きく異なっているということです。

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 次に科学に対する態度を比較します。これも大きく違います。福音派の場合には、現代科学の成果に対して懐疑的です。そして心理学や社会学を宗教に持ち込むことを嫌います。福音派にとっては、ダーウィンやフロイトなどは悪人の権化ということになります。特に、科学との戦いにおきましては、福音派は進化論との戦いをものすごく熾烈にやったことで有名です。ダーウィンが登場して、「種の起源」という本を書いて進化論を発表したときに、人間は神によって創造されたのではなくて猿が進化して人間になったのだと言ったので、これはとんでもない神を冒涜する思想だということで、根本主義者たちがダーウィンの思想を非難しました。アメリカのテネシー州では、1925年に公立学校で進化論を教えることを禁じる法律(バトラー法)が成立しましたが、これに挑戦して進化論を教える高校教師(ジョン・T・スコープス)が現れて、裁判沙汰になりました。これは「スコープス裁判」とか「モンキー裁判」とか呼ばれる有名な裁判です。このときからアメリカでは「創造論VS進化論」の戦いが長く続いています。

 フロイトも同様に、人間の欲求の本質をリビドー、つまり性欲であるととらえたので、これもとんでもない思想であると根本主義者から攻撃されました。ダーウィンやフロイトのような人々と徹底的に戦ったのが、福音派の人々です。端的に言えば、福音派の人々というのは、「これが現代科学の最新の研究成果です。これが聖書の見解です。この二つは矛盾しています。どっちを取りますか?」と聞かれたら、迷うことなく現代科学を否定して聖書を取る人々です。

 それに対して自由主義の人々は、同じ質問をされたときには、「それは聖書の解釈を現代科学に合うように変えたらいいんだ」という答え方をします。彼らは現代科学の成果を積極的に評価します。聖書の文字通りの解釈にもこだわりませんし、心理学や社会学の成果が宗教に役立つのであれば、それを宗教に応用して、キリスト教も科学的になっていかなければならない、現代化しなければならないという発想をします。

 この極端な例が、私がやはりアメリカの神学校時代に訪問した教会の中にありました。そこはAnglican Churchでありますから、イギリスの聖公会系の教会でありました。私たちは最初に礼拝に参加しましたが、礼拝そのものは非常に古式ゆかしい伝統的な感じの礼拝でした。その後で牧師館に行って、牧師さんの話を直接聞いたんですね。その牧師さんはリベラルなタイプで、「私は礼拝堂では聖書のみ言葉を語っているけれども、個々の信徒が相談に来たときにはフロイトの心理学を使ってカウンセリングをしているんだ」と言ったんです。ですから、牧会するんじゃなくて、フロイトの心理学を使ってカウンセリングをしているんですよ。これをもって彼は宗教と科学の統一だと考えていたわけです。このように、科学に対してどのように関わるかということにおいても、福音派と自由主義ではかなり考え方が違うということになります。

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 次に世俗社会に対する態度を比較します。これは世の中全般と教会との関係をどうとらえていくかということです。特に、社会がどんどん世俗化してキリスト教的な価値観が薄れていくなかで、この二つのグループはまったく異なる態度を社会全般に対して取るようになりました。1970年代以降のアメリカ社会というのは、どんどん世俗化が進んでいきました。アメリカ社会はそれまでピューリタンの伝統的な価値観が支配していたので、社会全体がキリスト教的な価値観で覆われていたような状態だったんですね。ところが1970年代ごろからヒッピーなどが現れ出して、「カウンター・カルチャー」と呼ばれるキリスト教の文化に対する対抗運動が生まれてきます。その中で「フリーセックス」に代表されるような自由な若者の文化が生まれて、キリスト教的な価値観が相対的に低下して、どんどん社会が世俗化していったんですね。そういうアメリカ社会に対して教会がどういうスタンスをもって付き合うのか、という課題が生まれてきたわけです。

 そのときに福音派の人々は、「まさに終末だ。世俗社会はソドム、ゴモラと化して、堕落しきっている。この堕落した世俗社会に私たちは染まってはならない。世間の風潮に対抗して、教会の中だけでも伝統的価値観を守って行こう」と決意して、必死になって教会の中を固めて、世俗社会に染まらないために断絶するという方向を選んだわけです。

 一方で自由主義の方は、そのようなアメリカ社会の変化を、歴史の流れであり進歩であるととらえて、世俗社会の潮流に合わせて教会の価値観も変化すべきであると考え、同調する傾向にあります。ですから、「科学が発達したら科学に合わせます。世の中が変化したらその世の中の動きに合わせます」ということで、極端な言い方をすれば、「世の中がフリーセックスだと言えば、まあ教会もフリーセックスでいいんじゃないか。世の中がホモセクシャルだと言えば、まあ教会もホモセクシャルでいいんじゃないか」というように、世の中に合わせちゃうということなんですね。「寛容」というのはいいんですけど、だらしないわけですよ。自分の貞操を守らないわけです。

 ですから、世の中に合わせていった結果、たとえば同性愛のカップルがいたとします。根本主義や福音派の教会に行って、「私たち同性愛カップルの結婚式を祝福してください」と言ったら断られますよ。ところが、リベラルな教会に行ったら、同性愛の人々も差別しないで神の祝福を与えないといけないということで、同性愛カップルにも祝福を与えるということなんです。そういうことでありますから、自由主義の方は社会の潮流にどんどん合わせて変わっていってしまうということになるわけです。

 このように、一口にキリスト教といっても、福音派と自由主義ではかなり違った信仰の内容になっているというです。ここまで話して、よく21修では修練生に尋ねることがあるんです。もしいま皆さんが統一教会を辞めて、福音派か自由主義かどちらかのキリスト教会に改宗するとしたら、どっちにしますか? (沈黙)そうですね。どちらも選びにくいですよね。倫理的には福音主義の方が高いかもしれません。でもガチガチで偏狭ですよね。ということは、私たちからはどちらも偏っているように見えて、バランスを欠いているように思えるわけです。じゃあ、統一教会はどっちなんだと聞かれたら、結論から言えば、どちらにも属さないということになります。ちょっと乱暴な言い方をすると、福音派と自由主義のそれぞれ良いところを取ってくると、ちょうど統一教会の立場になります。例えば他宗教に対する態度なんかは極めてリベラルです。しかし、世俗社会に対する態度は福音派に近いです。それぞれのテーマによって統一教会の立場は違います。統一教会は、福音派とリベラルというキリスト教を大きく二つに分ける軸の中に置いたとしても、絶妙の神学的バランスを持っている宗教であるということになります。このように、キリスト教の全体像が分かって、福音派とリベラルという対極的な考え方があるんだということを理解した上で統一教会を見つめれば、その正しい位置というものが分かるんです。

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