書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』32


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第32回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章で、統一教会の宗教市場における競争力を分析している。
「企業が市場開拓を行い、商品を投入して販売力を維持し、収益を上げるためには五つの競争要因(新規参入者の脅威、供給業者の交渉力、代替品の脅威、顧客の交渉力、競合他社との敵対関係)について適切な対応を取ることが必要だ」(p.135)という櫻井氏の解説は、「5フォース分析」と呼ばれる、バーバード・ビジネススクールのマイケル・E・ポーター教授によって開発された業界の収益分析のためのフレームワークをそのまま記述したものだ。これを日本の新宗教市場に当てはめてみると以下のようなことが言える。

①新規参入の脅威は、「神々のラッシュアワー」と呼ばれるほど新宗教が雨後の筍のごとく生まれた戦後の日本においては、極めて高いといえるだろう。統一教会が日本に宣教されて以降に創設されて有名になった新宗教にGLA、世界真光文明教団、ワールドメイト、オウム真理教、幸福の科学などがある。日本の宗教市場は参入障壁が低く、業界内のプレイヤー数が増え、競争が激化しやすい状況にあるといえるだろう。

②供給業者の交渉力が強ければ、原料等のコストアップ要因となり企業の収益性を低下させる可能性が高くなるというのが経済論理だが、宗教はどこか他のところから原材料を仕入れることはないので、これは宗教団体には当てはまらない。

③代替品の脅威とは、既存製品・サービスに比べて価格性能比に優れた代替品が存在する場合には、既存商品から代替品への切り替えが起こり、企業の収益性が低下する可能性が高くなるということだ。これを宗教に当てはめれば、信者が宗教団体に対してコストパフォーマンスを期待し、それを他の宗教と比較して選択するということになる。「あちらの宗教団体の方が少ない献金でたくさんの御利益があるから宗旨替えをしよう」という選択をする信者は存在するかもしれないが、実際には消費財のように合理的に宗教を選択しているわけでもないだろう。宗教は人のアイデンティティーの根幹に関わるものであり、唯一無二の価値を感じていることが多いので、商品のように買い替えるというモデルを当てはめるには限界があるように思われる。

④顧客の交渉力が強ければ、価格引下げ圧力によって企業の収益性が低下する可能性が高くなる。買い手の交渉力の大きさを決定する要因として、買い手の寡占度、スイッチング(切り替え)コスト、ブランド力の強さ等が挙げられるというのが経済論理である。これは主に企業間での取引に当てはまることであり、宗教団体の顧客は基本的に個人なので、顧客が大きな交渉力を発揮することはほとんどない。むしろ、宗教団体は顧客を教化して言い値で救いという商品を買わせる力を持っており、信者が交渉して献金の額を下げるというようなことはあまり考えらない。こうしたモデルは宗教団体には当てはまらないだろう。

⑤業界内の敵対関係の強さが大きければ、業界内の競争が激しくなり、企業の収益性が低下する可能性が高くなる。敵対関係の強さを決定する要因として業界内のプレイヤー(競合)の数、規制の有無等が挙げられる。これはまずライバル関係にある宗教が多数存在するかどうかであるが、日本の統一教会の場合にはまず既存のキリスト教会との敵対関係があり、さらに群雄割拠する巨大な新宗教団体のはざまで教勢を伸ばさなければならないという状況を考えれば、かなり厳しい環境であるということになる。一方、戦後の日本は政府による宗教に対する規制はほとんどなく、その意味では恵まれた環境であったと言える。

 というわけで、新宗教の市場における競争力を論じる上で参考になるのは①と⑤ぐらいである。「5フォース分析」という大風呂敷を広げたところで、参考になるのはせいぜい競合する他宗教との競争が激しいかどうかというような月並みな議論にしかならないので、わざわざ企業経営のモデルを持ち出すまでもないような気がするが、櫻井氏の分析も韓国と日本における他宗教との競合のことにしか、結局は触れていない。

 櫻井氏は、「宗教市場という想定を韓国社会になすとすれば、韓国においてキリスト教の教派間の競争は激烈」であり、「統一教会にも教会成長の余地は十分にあったわけだが、競合相手が手強いために教勢は人的資源や資金を投入したほど伸びず、現在でも異端宗教としての位置を超えられない」(p.135)と分析している。私も韓国のキリスト教の勢いは知っているので現状分析としては異論はないが、「異端宗教としての位置を超えられない」という表現はいただけない。正統と異端というのは、数の論理とは関係なく神学の問題として語られる言葉である。わざわざ企業経営のモデルを用いるのであれば、異端などという価値判断のこもった用語を使うのではなく、「マイノリティとしての位置を超えられない」と表現すべきである。純粋に教勢という観点からすれば、韓国の巨大なキリスト教諸団体に比べて統一教会は決して大きいとは言えないだろうし、目覚ましく成長しているとも言えないだろう。
「他方、日本では韓国ほどキリスト教圏に競合相手はいなかった。しかし、人口の一パーセントのキリスト教徒人口で伸び悩んでいる日本において、統一教会という特異なキリスト教が提供する教説はさほどの誘因にはならない。しかも、多種多様な新宗教が勢力を競っている宗教市場において、現世利益を信者に保証せず、献身のみを求める宗教が日本人を惹きつけることはありえない。そこで、原理研究会や青年層の世界改革志向を利用した社会運動を装う宣教戦略からスタートし、救済宗教というよりは反共的な政治運動として展開することになったのである。社会変革運動であれば、信者への報酬はユートピアの実現を約束すればよく、日常的な御利益、ありがたみ、癒し等を提供しなくても済むからである。」(p.135-6)

 この櫻井氏の分析は多くの問題や誤りを含んでいる。日本の宗教市場一般に関する分析はいいとして、その中における統一教会の位置づけが間違っているのである。確かに巨大な神道系、仏教系の新宗教の教勢に比べれば統一教会の規模は小さく、日本の宗教市場に対するアピール力が小さかったことは事実であろう。初期の統一教会が現世利益を信者に保証する宗教ではなかったことは明らかであり、それが日本の宗教市場において一般受けしないので教勢が伸びなかったというのも、分析としては正しいのかもしれない。しかしながら、そのようなものを求めているごく一部の人には強烈にアピールする力があったので、爆発的には伸びなかったものの、一定の信者を獲得することができたという視点を櫻井氏は欠いているのである。これこそが、まさにアイリーン・バーカー博士が発見した事実であった。バーカー博士は、「人はなぜムーニーになるのか?」という問いに対して、「ムーニーの説得力が効果を発揮するのは、ゲストがもともと持っていた性質や前提と、彼に対して提示された統一教会の信仰や実践の間に、潜在的な類似性が存在するといえるときだけだ」と結論した。

 それではどのような人がムーニーになりそうな人であるかと言えば、①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々――ということだ。日本統一教会の初期の信者たちもこれとほぼ同じ性質を持っていたと思われる。こうした人々は社会にそれほど多くいるわけではないので、統一教会のマーケットはマニアックなニーズに応える「ニッチな市場」であったことになる。

 そもそも、信者に「献身のみを求める宗教」などというものは存在しない。統一教会の信者が献身的なのは疑いがないが、何の見返りもないのにただ献身的に信じるということはありえないのである。初期の統一教会が、すぐにでも地上天国がやってくるという終末論的な希望に突き動かされていたことは、諸先輩の証しから明らかである。それは櫻井氏の言う「社会改革志向」とか「ユートピアの実現」の宗教的な表現であって、終末論的な指向性をもつ宗教においては決して珍しいことではない。したがって、それらは統一教会の宗教的本質であったのであり、「社会運動を装う宣教戦略」として展開されたわけではない。統一原理の持つ宗教的魅力に惹きつけられた、社会全体から見ればごく少数の人々が、救済を求めて信者になったのである。宗教に「日常的な御利益、ありがたみ、癒し等」を求めない人々もいるのだ。これは宗教としての個性やスタイルの問題であり、良し悪しの問題ではない。

 たしかに原理研究会は学内で左翼と闘い、勝共連合は一般社会に対して共産主義の脅威を訴える政治運動を展開してきた。しかし、それらは宗教を入り口として入って来た信者たちが、宗教的動機で行った活動であり、その逆はなかったのである。統一原理は共産主義を「サタンの最後の発悪」と規定しているので、その信者は反共運動を行う必然性がある。しかし、政治的反共運動は社会に対してアピールしたことはあっても、それを通じて関係を持った人々が統一教会に宗教的回心をすることはほとんどなかった。したがって、反共的な政治運動が宗教的なアピール不足を補うための擬装であったという櫻井氏の分析は、事実誤認にほかならない。これは現役の古参信者たちに対するインタビューを櫻井氏が行って入教の動機を調査していないことにも原因があるが、何よりも「統一教会にはそもそも宗教的な魅力など存在しないはずである」という櫻井氏の偏見が、事実の歪んだ解釈の原因となっている可能性が高い。

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