実況:キリスト教講座36


統一原理の神観について(10)

 それでは、この分野における統一原理の神観の特徴とはいったい何であるかというと、統一原理はすべての存在が相対的な関係によって成り立っているという、東洋的な哲学に立脚しているため、神と人間の関係もギリシア哲学に見られるような一方的なものでなく、相互に影響を及ぼし合うダイナミックなものであるということです。その根底には、神の最も本質的な属性を「心情」であると捉える独特な神観があります。すなわち、神様と被造世界がなぜダイナミックな関係を結べるかというと、神様の最も本質的な属性が「心情」であるととらえているところに、その原因があるということです。

 それでは、「心情」とは一体何でしょうか? 統一思想によりますと、心情とは「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」であると定義されております。ですから、「愛したい」ということですから、相手がいなければ愛にならないわけです。したがって、心情はその本性からして「対象の存在」とそれとの「交わり」を追求することになります。そしてその心情の特性からして、愛すべき対象が失われてしまったり、望んだとおりの交わりが実現されなかったりした場合には、当然神も嘆き悲しむのだということになります。つまり、神は絶対者でありながら被造物との関わりの中で生きることにより、自らを相対化した、そのような神様であるということが分かるわけです。
 
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 これを図にしますとこうなります。神様は被造物を創られる前は、絶対者として存在していました。これが、神様だけが存在していた状態ですね。しかしながら、神様には絶対であるとか唯一であるとかいう属性以上に、もっと本質的で強い属性があったわけです。それが「心情」なんですね。もしこの心情よりも永遠性、絶対性、唯一性などがより本質的な神様の属性であったとすれば、何も被造物なんか創らなくてもよかったわけです。「私は永遠である」「私は絶対である」と独りで思っていればよかったわけですから。なぜ被造物を創ったのかというと、唯一性とか、絶対性とか、永遠性とかいうこと以上に、「愛する対象が欲しい!」という衝動が、最も本質的な神様の属性だったからです。その心情を動機として、神様は被造物を創造せざるを得なかった。だから自分のすべてを投入して対象を創り出したということです。

 この対象から喜びが返ってくると、心情は刺激を感じるということになります。その喜びを感じる最も中心的な対象が何であったかというと、人間ということになります。あらゆる被造物の中でもこの人間は、神様に最大の喜びを返す、最高の美の対象として創られたので、人間を通して最高の喜びが得られるようになっていたということです。ということは、神様はもともと絶対者でしたけれども、一人で絶対者でいればよいものを、わざわざ愛する対象を創ることによって、それと「相対的関係」を結んで生きる存在になった、すなわち自らを相対化したということなんです。

 さらに、神様がすべてをコントロールするわけではなくて、人間に自由意思というものまで与えて、神様の願いに背いて自分の意思を通すことさえできるようにしたのです。この自由意思の結果として、もし人間が神様の願いに反したならば、喜びではなくて悲しみを感じるかもしれないようになったわけです。すなわち、被造物を創ってそれと相対的関係を結んで生き、さらに自由意思を与えるということは、それが神様に悲しみを返し、神様の心情が傷つけられる可能性までも包含しているわけです。そういう、いわばリスクを背負いながらも、自由意思を与えた自分の似姿である人間と共に生きることが最高の喜びなので、そのように人間を創造するという道を選んだわけです。それは人間を愛そうという神様の心情が、それくらい強かったのだということです。この辺が統一原理の神学的特徴でありまして、いわゆる存在論とか哲学を中心にするのではなくして、心情というものを神様のど真ん中において、最も本質的な属性としてとらえるところからすべてを説明しているということです。

 神が罪悪に満ちた人間を見て嘆き悲しまれるということは、絶対者としての神の権威を下げるものではなくて、むしろそれほど人間が神にとってなくてはならない貴重な存在であるということを意味しているわけです。よく、統一原理が「悲しみの神様」とか「恨(ハン)の神様」とか言いますと、批判する人は、神様をあまりにも人間的にとらえていて、唯一絶対の至高の存在である神様を引きずり降ろしているように感じるらしいんですね。神様というのはもっと貴いお方であって、そんな人間的な悲しみにとらわれているお方ではないと批判するわけです。罪悪に満ちた人間世界を見て嘆き悲しんでいる神というのは、あたかも神を冒涜しているかのようにクリスチャンたちは感じるようであります。

 それに対して私たちは、「そんなことはありません。それは神様の権威を下げているんではなくて、それほど愛深き方であるということを私たちは言いたいんです。それほど人間というものは神様にとって貴重な、無くてはならない存在であり、神様が絶対に必要とする存在であるということが言いたいんです。」と答えなければなりません。すなわち、神は人間をあってもなくてもいい存在として創造したのではなく、最高の喜びを得るための子供として創造されたのだということです。ちょうど親が子供の一挙手一投足に一喜一憂するように、神もまた人間の運命に対して無関心ではいられません。これが統一原理の主張する「心情の神」の姿です。こうした神の心情は、実は聖書の中には嫌というほどでてくるわけです。それを認めながら、どうして神は悲しまないと言うのかというと、それは哲学的な呪縛に陥っているので、神の悲しみという考え方を否定しているに過ぎないわけです。

 この辺が、キリスト教のいう上から一方的に人間を愛する神様と大変違った神観であるということになります。よくキリスト教では、神様の愛として「アガペーの愛」というものを説きます。愛には三種類あると言われておりまして、アガペーとフィリアとエロスと呼ばれています。アガペーとは何であるかというと、至高の存在、絶対的な存在がそれよりも下の存在に対して上から降り注ぐような無条件の愛のことを「アガペー」と呼んでいます。これが素晴らしい愛なんだ、神様の愛なんだということを一般にキリスト教は主張するわけです。確かに、堕落した人間の愛に比べれば素晴らしいですよ。堕落した人間の愛は、「何かしてほしいから愛する」という条件付きの愛であり、必ず見返りを求める愛ですから、それに比べれば神様の愛というのは、全知全能で永遠不変で絶対的な神様が、なんの見返りも求めずに、非常に罪深い人間を上から一方的に愛するんだ、これが「アガペーの愛」なんだというのは確かに素晴らしい話ですよ。

 しかし、その愛は本当の愛なのかということに関して、統一原理は敢えて疑問を呈するわけです。その「アガペーの愛」とは何であるかというと、平たくと言うと神様が人間に対してこう言っているのと同じなんです。「私は神です。私は完全無欠です。私は何でも持っています。あなたがた人間は何も持たない哀れで惨めな存在なので、私はあなたを一方的に愛しますよ。あなたは何も返す必要はありませんよ。あなたたちは無能なんですから。」つまり例えて言えば、あるお金持ちがいて、「私、すごいお金持ちなんです。もうあり余るほど財産があるんです。あなたたちは貧乏ですね。だから分けてあげますよ。そんな返そうなんて思わなくていいですよ。あなたがたは貧乏なんだから。一方的に与えますよ。」という話です。

 確かに見返りを求めなくて、素晴らしい愛のようなんですが、私たち人間の本性として、神様との関係がそれだけでいいんですか、ということなんです。一方的に愛されてそれを受けていればよいのかというと、それは私たちの本心が喜ばないでしょうということです。私たちは愛を受けたら神様に美を返したい、神様を喜ばせたい、神様に何かしてあげたいと思うのが人間の本性であると考えるわけです。ところがキリスト教の神学におきましては、人間が神様に何かを返すとか、神様を喜ばせるとかいう概念は存在しないんです。神様は一方的に上から愛するだけなんです。この辺がキリスト教の神観と統一原理の神観の大きな違いということになります。「心情の神」である以上は、愛したら、やっぱり愛が帰ってきてほしい、授受作用がしたいわけです。神様はよく授けると同時に、よく受けたいわけです。ですから人間に対しても、神様に美を返すことを期待しておられるし、美を返す度合いに応じて、成長した子供の姿を喜ばれる神様であり、人間と深く交わる神様であるわけです。そのような授受作用の関係というものが、一般的なキリスト教の神学にはなくて、一方的に上から愛するだけなわけです。

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