神学論争と統一原理の世界シリーズ04


第1章 神について

2.神は悲しんだり後悔したりするか?

神は悲しんだり後悔したりするか? 答は聖書をみれば一目瞭然。創世記第6章6節には「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め」と書いてあるし、その後の旧約聖書全体に、神が不信の民イスラエルに幾度となく裏切られ、失望と落胆を繰り返しながら嘆き悲しみ、時には怒り、罰を与えながらも最終的には許し、愛して導いてきた歴史が連綿とつづられているではないか。神が悲しんだり後悔したりしているのは周知の事実で、それができるかどうかというのは愚問ではないのか? と言いたいところだが、そう単純にいかないのが神学の難しさである。

なぜなら、伝統的なキリスト教神学には、これとは全く相反する神観があるからだ。普通、神とはどんな存在かと聞かれて思い浮かべるのは、唯一絶対、全知全能、完全無欠、第一原因者、といったところだろうか。もしこれが本当なら、神は最初からすべてを知っていて完成し、すべてをコントロールしているはずだから、人間の行動に左右されて後悔したり、嘆き悲しんだりするのは不可能だということになる。

哲学的な神と聖書の神の矛盾

伝統的な神学において描写されている「哲学的な神」は、人間と親密に交わる人格的な「聖書の神」とは、かなりイメージの異なる「絶対的な超越者」だ。それは何かを動かすことはあっても動かされることはなく、他に何かを与えることはあっても与えられることはない。完全無欠でそれ自体で完結しているから、進歩・発展することもない。したがって人間を上から一方的に愛することはあっても、人間の行動によって喜んだり、逆に悲しむこともないという無関心な神である。ましてや、人間の行動に左右されたり影響を受けたりするなんてあり得ないのである。

このように「哲学的な神」と「聖書の神」との間には大きな隔たりがあるが、どうしてこのようなことになってしまったのか? それは伝統的なキリスト教神学が、ギリシア哲学と聖書の思想のブレンドであったことに原因がある。新・旧約聖書は物語や教訓の寄せ集めであり、そこには哲学的体系がなかった。最初のうちはそれで十分だったが、キリスト教がヘレニズム世界へ広がっていくにつれて、教義を体系的に整えて知的に説明し、さらには正統と異端とを明確に定義する必要が出てきた。その当時、最も進んだ哲学者と言えばプラトンとアリストテレスであったから、神学を組み立てる論理的な骨格として、ギリシア哲学を借用したわけである。

これによってキリスト教神学は学問的に洗練されたわけだが、ギリシア哲学と聖書の思想、この二つの思想の神観はどう考えてもミス・マッチだった。キリシアの哲学者たちが頭の中で思索して生み出した神は、まさしく前の段落で述べたような、宇宙の頂点に君臨する観念的な絶対者だった。そして神と人間の関係は、非人格的で一方通行だ。それに対して聖書の神は、ユダヤ民族とクリスチャンたちが苦難の中で信仰を通して出会った、いわば血の通った生きた神の姿であり、神と人間は深く人格的にかかわり合っている。

宗教的には、聖書の神の方が魅力的なのは言うまでもない。しかし哲学者たちは、それを単なる感情表現として片づけてしまい、学問的には洗練されていない価値の低いものとして片隅に追いやってしまった。その結果として、冷たく無関心な神のイメージができ上がってしまったのである。現代の神学者たちの多くは、ギリシア哲学がキリスト教の神観にこのような弊害を与えたことを認めている。そしてA・N・ホワイトヘッドやハーツホーンの「プロセス神学」に代表されるような、可変的でダイナミックな、新しい神観を提示しているのである。

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947)

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947)

チャールズ・ハーツホーン(1897-2000)

チャールズ・ハーツホーン(1897-2000)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自らを相対化した絶対者

「統一原理」は、すべての存在が相対的な関係によって成り立っているという、東洋的な哲学をも包含している。したがって神と人間の関係も、ギリシア哲学に見られるような一方的なものでなく、相互に影響を及ぼし合うダイナミックなものだ。その根底には、神の最も本質的な属性を「心情」であるととらえる独特な神観がある。「心情」とは、喜びを得たいという心の発露であり、その本性からして「対象の存在」とそれとの「交わり」を追求する。したがって、その対象が失われたり、望んだ通りの交わりが実現されなかった場合には、当然神も嘆き悲しむのである。神は絶対者でありながら被造物との関わりの中で生きることにより、自らを相対化したのだ。(図2)

【図2】
神が罪悪に満ちた人間を見て嘆き悲しまれるということは、絶対者としての神の権威を下げるものではなく、むしろそれほど人間が神にとってなくてはならない貴重な存在であるということを意味している。神は人間をいてもいいなくてもいい存在として創造したのではなく、最高の喜びを得るためにどうしても必要な「子供(実子)」として創造されたのである。親が子供の一挙手一投足に一喜一憂するように、神もまた人間の運命に対して無関心ではいられない。これが統一原理の主張する「心情の神」の姿なのである。

 

 

 

 

 

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