書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』103


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第103回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第100回から第六章「五 統一教会の祝福」に入り、過去三回にわたって①写真マッチング、②約婚式、③聖酒式、④結婚式(祝福)、⑤蕩減棒、⑥聖別期間に関する櫻井氏の記述を分析してきた。今回はその続きで、⑦三日行事について扱う。

 古来より宗教には秘儀や奥義と呼ばれ、非信者はもとより、信者の中でも一定の資格を有する者にしか公開しない教えの内容や、参加することはおろかその存在さえ知らされない儀式というものが存在した。こうしたものが存在する主たる理由は、その教えや儀式に何かやましいことがあるからではなく、「教育的配慮」や「誤解を避けるため」というものであった。これは真理の段階的開示ということである。宗教的真理というものは、客観的な情報として存在するというよりは、それを聞く人の前知識や心の姿勢が伴ってこそ正しく理解されるという性質を持っている。したがって、その教えを受ける準備が出来たとみなされた者のみが、奥義を明かされたり、それに基づく宗教的儀式に参加する資格が与えられたりするのである。このように真理を段階的に開示することもまた、信教の自由の一部として尊重されるべきである。

 三日行事に関する詳細な内容は、統一教会の秘儀または奥義に該当するもので、広く一般に公開されていない。独身時代はもとより、祝福を受けた後も、家庭を出発する直前に参加する「家庭修練会」に参加するまでは、この内容が信徒に知らされることはなく、家庭修練会の中で特別な講義として語られるのが一般的である。先輩信者に聞いたりしてその内容を知ることができないわけではないが、「時が来るまで知らない方が良い」内容として伝統的に扱われてきたのである。櫻井氏はこうした性格を持つ三日行事の詳細を、誰でも読むことができる書籍の中で、統一教会に許可を取ることもなく、無断で全文公開している。もとより彼には統一教会に礼儀を尽くすつもりは毛頭ないのかもしれないが、これは統一教会に対して極めて失礼な行為である。

 櫻井氏は305ページから312ページにかけて、「三日行事式次第」「三日行事失敗の対処法」の内容を掲載し、その内容に以下のようなコメントを行っている。少々長くなるが、引用することにする。
「統一教会の堕落ー復帰を再現するシンボリズムが、強烈なイデオロギーとして信者たちに内面化されたことはいうまでもない。信者の精神と肉体を根本的に組み替える強烈な儀式の力は、マインド・コントロールという言葉では弱すぎるとさえ思う。

 この儀式は、イデオロギーの注入にとどまらず、文鮮明の霊肉によって罪の解放を実現するという実質的効果を信者に経験させるために、性を用いる。この儀式書が性的結合に至るプロセス(体位を含めて)を念入りに規定し、例外は許されないこと、性器の挿入に至らなければ儀式の効能が現れないことなど縷々述べているのはそのためだ。儀礼であれば、類似行為によって代替可能だが、三日行事においては性行為の実践がなければならない。

 信者達は、献身生活中の数年間、極度に性的な緊張や禁欲を強いられてきた。異性への感情の揺れはアダム―エバ問題として原罪の根拠として否定され、唯一性愛の夢想が許されるのはメシヤが用意した祝福に関わるものだった。思春期・青年期にある若い男女が、共同生活を送りながら相手への好意すら禁じられ、三〇歳近く近くまで身体的接触が全く許されない環境にあった。これは驚くべきことだ。性的衝動を抑圧すると同時に解放のチャネルを用意して信者を方向づけている教化システムは極めて堅固なものだ。祝福の最終的な儀礼として、性愛への衝動やエネルギーは堕落からの復帰という性行為に注ぎ込まれる。

 この性行為は恋人や夫婦間の私的な秘められたものではなく、真の父母が写真を通して監視しているところでなされる公的で摂理的な儀礼なのである。人が宗教的信念ゆえとはいえ、自分の意思や好みで最も親密な関係を構築することができない。本来最高度に親密な関係ですら、メシヤとの霊的結合や堕落からの復帰といったシンボリズムにより統制を受け、教会本部から行為のやり直しを命じられることすらある。」(p.313)

 櫻井氏の言いたいことは、要するに三日行事を含む祝福のプロセスは性を通して信者をコントロールするシステムであり、本来極めて私的なものであるはずの性に関する権利を、信者たちは教会によって侵害されているということである。しかし実際問題として、三日行事を行うことが信徒の宗教的アイデンティティーの形成においてどの程度の効果を有するのかは、より厳密な調査が必要である。櫻井氏は三日行事に関する書類を見ただけで想像をたくましくして、「信者の肉体と精神を根本的に組み替える」とか「マインド・コントロールという言葉では弱すぎる」などという大げさな表現をしてるが、現実には三日行事を行った後で教会を離れる信者は多数いるのである。この行事がそれほど強力な拘束力を持つものであれば、その後の信者の離脱ということをうまく説明できない。

 祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、祝福の行事が持つ役割について櫻井氏の主張と同じような分析を行っているが、そのことに対する価値判断においては真逆の主張をしている。グレイス博士が同書で掲げているテーゼは、「統一運動の性と結婚に対するアプローチは、そのメンバーの献身的な姿勢を維持し、強化するのに非常に有効に機能している」(p.31)というものであった。すなわち、「社会学的には、結婚前の禁欲生活、マッチング、聖別期間、祝福の儀式、家庭出発のための儀式、および夫と妻としての家庭生活は、個々のメンバーの教会に対する献身を強めるための求心力として働いている」(p.115)というわけである。しかし、彼はそもそもそれをネガティブなこととは考えておらず、ある意味で宗教においては当然のことであると考えている。
「長年にわたって宗教と社会と性の関係について調査した結果、私は宗教が持つ非常に重要な社会機能のひとつが、結婚生活が人間の共同体のさまざまなニーズに役立つように、結婚生活における性的表現を形成する役割であるという確信を持つようになった。この『形成』が、個人をグループに適合させ、『真正な』メンバーとしての彼または彼女の活動をコントロールするプロセスを促進するのである。・・・私は以下のことを主張する。そしてこれらは本研究の基本的な前提となっている。(1)そのメンバーの性や結婚に関する生活をコントロールすることのできる社会やグループは、彼らの生活全般をも相当にコントロールすることができる。(2)歴史的にみて宗教的信仰の形成は、共同体がそのメンバーの性と結婚に関する活動を規制するための最も効果的な手段であることが証明されている。」(p.8)

 そもそも結婚とは社会的に承認された男女の結合であり、勝手気ままな男女の性交とは区別されるものである。婚姻は当事者の男女に対して「夫」「妻」という地位を与え、当事者の性関係に社会的承認を与えるとともに、婚外の性関係を制限し、この統率を通じて社会の基本構成単位である家庭の存立と、社会そのものの安定に寄与するという機能がある。したがって、いかなる文化圏にも結婚が成立するために必要なさまざまな規制や条件があり、それらはいずれも基本的にはその社会や文化を維持し、発展させるために形成されたものである。このような視点からすれば、統一教会も一つの社会である以上、その結婚制度がその共同体を維持・発展させるために機能しているというのはごく当然のことであると言えるのである。

 グレイス博士は、統一教会における結婚の最も顕著な特徴の一つは、個々の家庭の目的と共同体全体の目的が分かち難く結び付いており、さらにそれが世界全体の救済というより大きな目的へとつながっている点にあると指摘する。このように個々の家庭と社会全体の目的が強く結び付いている結婚の形態は、極度に個人主義的になったアメリカ人の結婚に関する価値観に対する一つのアンチ・テーゼとして理解できる、とグレイス博士は論ずる。社会学者たちは総じて、性と結婚についての価値観に関する限り、アメリカ人は極度に個人主義的になっていると指摘している。そしてアメリカ社会における婚約破棄、別居、離婚の増加は、この問題が顕著に表れたものであり、統一教会の結婚はこのようなアメリカ社会における結婚の危機に対して、一つの解決の選択肢として考慮すべきものであると述べているのである。

 櫻井氏も、宗教が性を統率してきたという歴史的事実を知らないわけではないので、著書の314ページにおいてその事例を並べた上で、「その意味では、統一教会による性の統制、家族の形成も、宗教としてありえないものでも例外的なものでもない」こと自体は認めている。しかしそれでも、「近現代では宗教による性への統制が抑圧的とみなされて批判されてきた」「このように性行為まで支配する教団は、近代社会では稀といわざるをえない」「現代日本において一宗教団体が信者の性と家族形成を完全に統制していることの問題性は大いに議論されるべき」(p.314)などと、批判の手を緩めることはない。

 この問題は、最終的には宗教が性を統制することを是とするか非とするかという、価値観の戦いとなるであろう。櫻井氏はこの問題に関しては個人の権利を主張するリベラル派であり、三日行事は性を利用した教団による信徒の抑圧であるとしか考えない。一方、グレイス博士は保守派であり、過度の個人主義に陥った結婚や家庭はやがて崩壊する運命にあるのであり、宗教が性と結婚のあり方を規定し、それを通して個人と共同体を結び付ける役割は尊重されるべきであると主張しているのである。櫻井氏のような考え方の持ち主には、三日行事を含む祝福の意義が正当に評価されることはないであろう。

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