キリスト教について学ぶ意義(6)
さて、キリスト教について学ぶ上で、統一教会の食口はキリスト教についてまったく無知なのかということについて論じてみたいと思います。反対牧師の説得を受けるとなぜ離れてしまうのかというと、キリスト教に対する理解不足が原因で教会を離れる兄弟姉妹が多いことは事実です。しかし、食口は聖書やキリスト教について何も知らないのかというと、一般的な日本人と比較して、キリスト教の知識そのものが不足しているわけではありません。すなわち、聖書も一応読んでおりますし、キリスト教の基本的な考え方を知ってはいるわけです。知識の量が少ないわけではないのですが、統一教会の食口はキリスト教に対してある独特の理解を持っているがゆえに、ちょっと偏った理解をしている場合が多いということになります。
このことを私の神学論争の本の中で取り上げておりますので、そこを少しだけ、冒頭の部分だけ読んでみたいと思います。この『神学論争と統一原理の世界』の序論の中に、「すでに『統一原理』を学んでいる方へ」というタイトルで、次のようなことを論じております。
「反ユダヤ主義(anti-Semitism)」の問題というものをご存じだろうか? この言葉は、ユダヤ教徒およびユダヤ人に対する敵意や迫害を意味するのであるが、現在ではその多くが不当な偏見に基づくものであると理解されている。我々日本人は実際にユダヤ人と接する機会が少ないので、『反ユダヤ主義の問題』といわれてもピンと来ないかも知れないが、ユダヤ人の多いアメリカや、アウシュビッツの悲劇を経験したヨーロッパにおいては、ことユダヤ人に関する発言には慎重な態度が必要であることは広く理解されている。しかし日本にいる限り、そのことを肌で感じることはできない。言ってみれば、このユダヤ人問題の根深さや複雑さを理解するだけの国際感覚が日本人には欠如していたために、あの『マルコ・ポーロ』が数年前に廃刊に追い込まれたような事件を引き起こしたともいえるのである。」(『神学論争と統一原理の世界』p.21)
マルコ・ポーロ事件というのはちょっと昔の事件なので、若い方は知らないと思います。むかし、『マルコ・ポーロ』という文藝春秋社が発行していた雑誌があったんですね。その1995年2月1日号に、「ナチの『ガス室』はなかった」と主張する記事が掲載されたんです。これに対して海外のユダヤ人が猛抗議してですね、その結果として文藝春秋社が謝罪した上で『マルコ・ポーロ』を廃刊にし、花田紀凱という編集長を解雇した事件ですね。つまり、ユダヤ人が大虐殺されたということは歴史的な事実であり、それが深刻な人権侵害であったということは世界中が認めていることで、それをいまさらなかったということ自体が「反ユダヤ主義」であるということで、徹底的に批判されて、一冊の雑誌が廃刊に追い込まれるほどの重大な問題になったということです。
皆さんよく「ユダヤの陰謀」というようなことを耳にしたり、そうした類の本が書店に並んでいるのを見たことはありませんか? このようにユダヤ人を忌み嫌う考え方のことを「反ユダヤ主義」というわけです。日本にも伝わっているこの「反ユダヤ主義」というのは、実は欧米には非常に昔からあったわけです。いまでこそ、この「反ユダヤ主義」というのは人種差別で、いけないんだというふうに批判されていますけれども、なぜそこまで批判されるようになったかと言えば、もともとユダヤ人に対する深刻な差別とか偏見が実際に存在するから、それはいけないんだということになったわけです。欧米における反ユダヤ主義に対する批判の動機には、実は長い間ユダヤ人を迫害してきたことに対する「後ろめたさ」があるわけです。
これは有名なポーランドのゲットーの写真でありますが、ユダヤ人はいわゆるゲットーという非常に汚い、衛生面でも悪いところに押し込められて、非人間的な生活をさせられていたわけです。これはヨーロッパのキリスト教社会全体が、ユダヤ人に対してとても差別をして冷たかったという伝統があるからなんです。
ではヨーロッパをはじめとして、西欧社会になぜこれほどまでに「反ユダヤ主義」、ユダヤ人に対する嫌悪というものが歴史的に流れてきたかというと、それはキリスト教自体がユダヤ人が大嫌いだったからということで、「反ユダヤ主義」のルーツは実はキリスト教にあるんですね。すなわち、クリスチャンたちにとってユダヤ人とは「キリストを殺した人々」であり、「イエスの敵」であるということです。
ではクリスチャンたちがなぜユダヤ人に対して、「イエスの敵」であるとか「キリストを殺した張本人の民族」であるという認識を持つかというと、それはキリスト教の聖典であるところの新約聖書そのものの記事の中で、ユダヤ人というものがものすごく腹黒く、悪いイメージで描かれているからなのであります。すなわち、ユダヤ人に対する偏見のルーツは「新約聖書」そのものの中にあるのだということになります。
皆さん新約聖書を読まれたと思いますが、その新約聖書の中に出てくるユダヤ人の姿を見て、普通ユダヤ人を好きになりますかというと、好きにならないような描かれ方をしているんです。すなわち、傲慢で腹黒いパリサイ人や律法学者として描かれているわけですし、そしてイエス様が裁判にあったときに、「イエスを十字架につけよ」と叫んだとても醜い群衆の姿として、ユダヤ人というものが描かれているわけです。これをそのまま毎日信仰生活の中で読んでいくわけでありますから、子供のころからずーっとそういう話ばかりを聞かされるわけですから、もうクリスチャンの頭の中では「ユダヤ人=悪い人」「ユダヤ人=腹黒いパリサイ人、律法学者」というイメージがこびりついちゃうわけですね。そうすると、クリスチャンの心の中で出来上がったユダヤ人に対するイメージが、いまそこにいるユダヤ人に対して投影されて、「あの人たちは悪い人だ」と迫害するという構造になるんですね。
新約聖書の中でユダヤ人はとても悪く描かれています。では描かれているそのユダヤ人の描写は、客観的なユダヤ人の描写なのかと言えば、ちょっとそうとは言い難いわけです。当時の状況というものを考えてみると、新約聖書を書いた人たちはとりわけユダヤ人に対して敵意を持っていました。そういう状況の中で新約聖書が書かれたわけです。キリスト教というものは、イエスをメシヤとして信じるユダヤ教の1セクトとして出発しました。両者はライバル関係にあり、とくに初期、ユダヤ教からキリスト教は激しい迫害を受けたわけです。そういう敵対する勢力、しかも自分たちの愛する先生を殺したのはあのユダヤ人だという感覚の中で聖書を書くもんですから、その中ではユダヤ人という存在は必要以上に歪めた、いわゆるデフォルメ(変形)されたイメージで描かれていくことになるわけです。