実況:キリスト教講座03


キリスト教について学ぶ意義(3)

 前置きが長くなりましたけれども、ここで、なぜ私たちがキリスト教について学ばなければならないのかという、「キリスト教について学ぶ意義」ということで、本論に入っていきたいと思います。

 私たちがキリスト教というものを見つめるときに、陥りがちな誤った見方がありますので、そういう傾向からお話をしたいと思います。よく私たちはキリスト教に対して、「摂理を失敗させた宗教」だとか、「私たちの次元にまだ到達していない、新約レベルの人たちなんだ。私たちは成約レベルなんだ」とか言って、ややもすると見下げる傾向がありはしないかということです。こうした見方は、実はまったく根拠のないことではないわけでありまして、それは「復帰摂理の三段階」という図式があるからなんです。

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 本来、アダムが蘇生、長成、完成という三段階を通過して、神と一体となるようになっていた。それが長成期完成級で堕落したので、歴史をかけてこの三段階の成長期間を上ってきたということがあって、その歴史的過程の中で摂理を担当した各時代の宗教というものがあり、旧約時代には律法のみ言葉を中心としてユダヤ教が中心宗教であった。しかしこのユダヤ教が摂理を失敗させたので、新約時代には福音を中心とする信仰の時代になって、キリスト教徒たちが摂理を担当してきた。そして、このキリスト教徒たちの土台の上に、いまや成約のみ言葉が語られるようになって、この時代の中心宗教は統一教会である。このように、旧約、新約、成約と、三段階を通じて歴史発展をしてきた。そして私たちがいるところは、この三段階の一番上のところであって、彼らの土台の上にさらに高度な理念を学び、さらに高度なところにいるんだ、という考え方があるんです。

 これ自体はみ言葉に基づくものでありまして、間違っているわけでもなんでもないのですが、それでは私たち統一教会の食口の一人ひとりの心霊が、ほんとうにここ(三段階の一番上)にあるのか、ということが実は大きな問題であるわけです。つまり先ほど言ったように、神様に準備された、招かれていたキリスト教徒たちが再臨のメシヤに出会って、旧約・新約の勝利の土台の上にみ言葉を受けて信仰生活をしていれば、当然、最も基準の高い人たちはこのレベル(長成期完成級)に到達して、再臨主と共に歩むということになるんでしょうけれども、しかし私たちの大部分は、旧約・新約という伝統的な信仰を相続した基盤の上にこの道に来たわけではなくて、キリスト教のこともよく分からなければ、聖書も読んだことがないという状態の中で、いきなり最高度のみ言葉を持つ統一教会に出会ってしまったというのが実態なんですね。

 これをたとえて言うとどういうことになるかと言いますと、算数や数学を勉強するときに、段階というものがあります。小学校で四則演算を習い、割合とか分数とかをやって、中学校に入って方程式などをならい、高校に入ってからさらに高度な微分や積分を勉強するというように、段階を踏んで初めて理解できるようになっているのです。ところがその段階を経ることなくいきなり高度な高等数学を学ぶとどうなるかというと、ほとんどわけが分からなくて消化不良になってしまうのです。

 ですから、本当は統一原理のみ言葉というのは、ユダヤ教の土台の上にキリスト教があって、そういう信仰生活の訓練をして、律法なり福音なりをしっかりと学んで、成長してきた者が聞いて初めて完全に理解できる、とても高度なものなんですね。ところが、そういう訓練をまったくしないまま、いきなり出会った者が多いものですから、そのみ言葉の価値を受肉できないでいるわけです。統一原理を聞いたけれども、心霊は下の方をさまよっているというようなことが多いわけです。

 私は国際会議でいろいろなクリスチャンやユダヤ教徒に会いますけれども、とても霊的に高いなあ、素晴らしいなあと思える人はたくさんいますよ。ですからそういう意味におきまして、私たちは統一教会に入ったから自動的にここ(完成期)にいるんではなくて、むしろ価値なくして御言葉を聞いてしまったので、残された宿題としてこの部分(蘇生期、長成期)をもう一度学びなおさないといけない、という気持ちをもってキリスト教というものを見つめていかなくてはいけないのではないか、と思うわけです。

 そういう意味で、キリスト教について学ぶ意味の第一番目として私が挙げたいのは、神の復帰摂理を先駆けて担当した宗教として、私たちはキリスト教というものを敬意をもって見つめていかなければならない、ということです。

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 ユダヤ教とキリスト教と統一教会の関係に関してお父様が語られた非常に興味深いみ言葉の中に、1976年9月18日に、アメリカの首都ワシントンDCにあるワシントン・モニュメント広場という大きな広場で「ワシントン大会」が行われたときに、30万人の群衆に対して語られた、「神のみ旨とアメリカ」というタイトルのみ言葉があります。その中でお父様はどういうことを言っておられるかというと、ユダヤ教とキリスト教と統一教会はそれぞれ旧約時代と新約時代と成約時代を代表しています。これは神様から見れば、ユダヤ教が長男の立場、キリスト教が次男の立場、統一教会が三男の立場であり、神の願いは歴史的な選民圏を形成してきた長男、次男、三男という三人の兄弟が一つとなって統一世界を造ることだと、お父様は語っていらっしゃいます。

 こういうみ言葉を語る背後に何があるかというと、いまは一つになれていないから、一つになることが神の願いだ、ということを言っているわけです。つまり、このユダヤ教とキリスト教と統一教会は、一つになるどころかお互いに反目し合っている、闘い合っているという状況の中にあるわけです。ユダヤ教とキリスト教の間には歴史的反目がありましたし、いまも統一教会とキリスト教の間には激しい闘いがある。その姿を見られて、親なる神様はどういう心情でいるかということを考えてくださいということなんです。

 ユダヤ教にしても、キリスト教にしても、統一教会にしても、実はそれぞれはものすごく親を愛している、つまり親孝行なんです。神様を愛しているわけです。しかし、それぞれが神様の愛し方において、親孝行の仕方において違った考え方を持っていて、親の愛し方をめぐって激しく喧嘩をしているということになります。これは親の立場からしたらどうでしょうか? 長男、次男、三男がいて、みんな親孝行しようとしている。しかしその親孝行のやり方の違いが原因となって激しく喧嘩をしているということになると、親として嬉しいでしょうかということなんですね。嬉しくないわけですよ。兄弟が一体となって、愛し合って親孝行してくれた方が嬉しいに決まっている。しかし、いまの現状は一人ひとりは親孝行なのに、お互いの意見の違いから争い合ってしまっている。それをなんとかできないかというのが神様の願いだということです。

 生まれた順番から言えば当然、ユダヤ教が長男で、キリスト教が次男で、統一教会が三男ですから、ユダヤ教やキリスト教は統一教会から見れば、いわばお兄さんの立場であることになります。統一教会は最も末の弟のアベルの立場にいることになります。アベルは何をしなければならないかというと、お兄さんを愛して、自然屈服させていかなければならないのが、アベルの立場であるわけです。それがもし傲慢になって、あいつらは失敗した宗教なんだと、俺たちの方が上なんだと言ってしまったら、それはエデンの園において自分だけが供え物を取られたということで喜んでいた傲慢なアベルの姿とまったく同じだということになってしまいます。

 ですから、先駆けてこれまで神様の摂理を担当してくれた先輩宗教であり、お兄さんの宗教であるユダヤ教やキリスト教に対して私たちは敬意を持ち、彼らが自然屈服できるように愛してあげなければいけないんだということです。それが神様がキリスト教という宗教を見つめておられる心情だということをまず理解しなければなりません。

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