書評「ムーニーの成り立ち」10


第八章「被暗示性」

 このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第八章の「被暗示性」を要約して解説します。

 英語では「Suggestibility」という単語がこれにあたりますが、英語の定義では、”Suggestibility is the quality of being inclined to accept and act on the suggestions of others.”となっていて、要するに「他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向」と理解することができます。「統一教会に入るような人は基本的に説得に弱くて、勧められるとNOとは言えないタイプの人だから巻き込まれてしまったのだろう」とか、「カルトに巻き込まれるような人は、素直なお人好しタイプが多い」とか、「精神的な弱さや隙があったから統一教会につけこまれたのだ」と第三者が推論することはよくあることですし、常識的にもそんな気がするというのは理解できます。しかし、本当にそうかどうかは、科学的な検証によって証明しない限りは分からないのであり、憶測に過ぎません。果たして統一教会に入るような人は、基本的に意志が弱くて、自我がはっきり確立しておらず、説得されれば何でも受け入れてしまうようなタイプの人間であり、たまたま出会ったのが統一教会に過ぎなかったのでしょうか? それとも、どんなに説得されても他の団体には入らないけれども、統一教会だからこそ納得して入ったのでしょうか? バーカー博士はそのような問いを立ててこの章を論じています。

イギリスでの原理講義の様子

イギリスでの原理講義の様子

 精神科医や臨床心理士といった職業の方々は、人が宗教に入るのは何らかの精神的問題をかかえているからであるととらえる傾向にあります。彼らが唯物的で反宗教的な思想をもった人物ならその傾向は一層強まり、「カルト」の信者の過去を根掘り葉掘り聞き出して、その人が「カルト」に入らざるを得なかった原因となるトラウマや何らかの精神的問題を探し、何か一つでも見つければ「診断」は終わり、それによって入信の理由を説明しようとします。しかしバーカー博士は、それが単なる「後付けの説明」である可能性は大いにあるのであり、真の入教の理由であるという保証はないと批判します。結果として入教した一人の過去をほじくり返しても、因果関係は特定できないのです。それは同じような経験を過去に持つにもかかわらず入教しない人がいるからであり、またその人が「普通の人」に比べて特に大きなトラウマをかかえているとか、重大な精神的問題をかかえているとは言えないからです。「普通の人」と比較にするには、対照群との体系的な比較調査が必要です。人の精神的健康度を測定する心理テストによってこれが可能ですが、バーカー博士が紹介する統一教会の信者に対する過去の心理テストの事例は、ムーニーが精神障害を抱えた若者たちの集まりであるという証拠を見いだせなかった、と結論しているようです。すなわち、「ムーニーになるような人はもともとトラウマをかかえているか、精神的に脆弱で何らかの問題をかかえている傾向が強い」という仮説は、検証によって否定されているのです。

 対照群との体系的な比較によって統一教会員の「被暗示性」が強いかどうかを客観的に測定するため、バーカー博士は統一教会に入会したかどうかとは別の「独立した」指標で、「受動的な被暗示性」を定義します。それは具体的には、「青年期の未熟さ、精神障害、薬物乱用、あるいはアルコール依存症などの経歴、学校における成績や素行の不良、両親の離婚や不幸な子供時代、友人関係を維持する能力の欠如、過渡的な状況にあるか人生の明確なビジョンや方向性を持っていないこと、優柔不断の傾向、職業やガールフレンド(ボーイフレンド)を次から次へと変える傾向」などとなっています。

 日本でも伝統的に新宗教に入信する人のニーズは「貧」「病」「争」と言われ、何らかの不幸を抱えているから宗教に救いを求めるのだということは良く言われてきました。しかしながら、高度経済成長期以降に教勢を伸ばした新宗教は必ずしもこのパターンには当てはまらず、もっと精神的・倫理的なニーズで宗教に入信する人が多くなったと分析されています。統一教会もどちらかといえば後者の部類に入る宗教だと思われるのですが、バーカー博士の分析はある意味でこのことを裏打ちしています。すなわち、分析の結果として分かったことは、①ムーニーは貧困または明らかに不幸な背景を持っているという傾向にはない、②もともと精神的な問題や薬物使用などの問題を抱えていたというムーニーは少数派である、③ムーニーが基礎的な知識に欠けるがゆえに説得を受け入れやすいのだという証拠はない、ということでした。これらはすべて対照群との比較によってデータ的に裏付けられています。もし、統一教会が未成年者や精神病者などの精神的に脆弱な人々にターゲットを絞って、それらの人びとの無知や脆弱性につけこんで勧誘をしていることが明らかであれば、こうした弱者を勧誘から守ることによって人権を保護するという考え方は一定の説得力を持つでしょう。ところがこうした事実はなく、むしろ統一教会に入教するような人々は、基本的に幸福な幼少時代を過ごし、若いといっても既に成人しており、健康で社会にも適応し、高度な教育を受けた人々が多いのです。もちろん、精神的な問題を抱えた人々が救いを求めて修練会に参加するということはあります。ところが、こうした人々は最終的に食口にならないか、一度入教したとしても短期間で離脱してしまう人が多いというデータが出ています。

 バーカー博士のデータ分析によれば、被暗示性が弱い、すなわち強固な意志を持っていて人の影響を受けにくいタイプの人も確かにムーニーにはなりにくいけれども、逆に被暗示性が強すぎる、すなわち人の言うことを何でも受け入れてしまうようなタイプの人も、修練会に参加したとしても最終的にムーニーにならないか、なったとしても短期間で離脱する傾向にあることが分かりました。すなわち、ムーニーになる人々は、「被暗示性」においては中間層の人々だということです。

 このことを、私たちの実体験に即して表現するとどういう意味になるでしょうか? 一般的な経験から、み言葉を聴いても伝道されにくい人のタイプとして、我が強い人、自信満々で挫折を感じたことのない人、霊の親や講師の言うことを素直に聞けない人、謙虚に学ぶ姿勢のない人、批判精神の旺盛な人、といった性質をあげることができるでしょう。こうした人が必ずしも伝道されないわけではありませんが、伝道する側からすれば「手強い相手」であり、食口になる確率は低いと言えます。

 逆に、素直にみ言葉を聴いているようで最終的には食口にならなかったり、すぐに離れてしまうようなタイプの人として、優柔不断な人、自己嫌悪の強い人、意志力や継続力が弱くすぐにあきらめてしまう人、親兄弟、友人、恋人などに反対されるとすぐに影響されてしまう人、といった性質をあげることができるでしょう。信仰の道は堅固な意志力を必要とするので、こうした人はこの道に憧れたとしても途中で挫折してしまうのです。前者のようなタイプの人を「被暗示性の弱い人」、後者のようなタイプの人と「被暗示性の強すぎる人」と考えることができ、どちらも統一教会の信仰を持つのは難しいタイプだと考えることができます。このデータは、社会学的な研究結果と我々の実体験からくる実感が一致する例として、興味深いものと言えるでしょう。

 この章の最後にバーカー博士は、一つのアンケート調査の結果を報告しています。それは自分の一生を①10歳まで、②11~16歳、③17歳から統一教会に出会う6ヶ月前まで、④統一教会に出会うまでの6ヶ月間、⑤現在ーーの5つに分け、その期間の幸福度を①非常に幸福、②幸福、③まあまあ、④なんとか耐えうる、⑤不幸ーーの5段階で評価してもらうというものです。これを現役のムーニー、離教者、非加入者、対照群で比較して、そこに顕著な違いを見いだせるかという分析を行います。その結果分かった典型的なムーニーの人生行路は、基本的に幸福な子供時代を過ごし、十代になっても比較的幸福な状態にあるけれども、統一教会に出会う直前に幸福度が落ち込んだ状態になり、統一教会にいる現在は幸福度がアップしているということです。

 どうやら統一教会に入るような人は、比較的幸福な幼少期を過ごして、人よりもやや遅めの青春の悩みを感じ、その頃に統一教会に出会って入教する傾向があるようです。一方で、不幸な子供時代を過ごしたとか、継続して不幸であり続けるような人は、修練会に参加しても入教しないか、したとしても短期間で離脱する傾向にあるようです。統一教会に出会う直前に幸福度が落ち込むということは、われわれの言葉でいえば「個人的な終末」を迎えたときに、み言葉と出会ったということになるのかもしれません。こうした結果を総合して、バーカー博士はムーニーになるような人が特に被暗示性が強いという証拠はないと結論しています。すなわち、何でも受け入れてしまうような説得に弱いタイプの人が統一教会に入るわけではないということです。

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