書評「ムーニーの成り立ち」08


第六章「修練会に対する反応」

 このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第六章の「修練会に対する反応」を要約して解説します。

 第五章までの分析により、統一教会の修練会に「洗脳」のような生理的な強制力があることが否定されたので、この章では「マインドコントロール」という言葉が意図しているような、より内面的な強制力が働いているかどうかを検証します。これは統一教会の修練会に参加した人は誰でも、その人の持つ背景、個性、経験などに関わらず、全員が統一教会式の世界の解釈をするように誘導され得るのか、それとも自分の考えに照らして統一教会の世界観を拒絶したり受け入れたりするという、主体的な選択を行うのかを問うているわけです。結論として統一教会の修練会は、ある人にとっては非常に興味深く魅力的なものであるのに対して、別の人にとっては非常に退屈で受け入れがたいものであるというように、その受け止め方には多様性があるという事実を明らかにすることにより、入教するかどうかを決定する主な要因は統一教会の修練会にあるのではなく、むしろそれを受け止める個人の資質にあるのではないかと分析しています。

 この章で図表化されて示されている修練会への反応は非常に興味深いデータであり、「会員はみな良い人で、修練会の雰囲気も楽しかった」と感じながらも、講義は受け入れられなかったので入会しなかった、という人が相当数いるということです。すなわち、楽しいとか雰囲気が良いというだけの理由で信仰を持つまでに至る人は、仮にいたとしてもごく少数であるということです。

 この章では、修練会の感想文やインタビューから得られた言葉が引用されているのですが、修練会の感想文を読み慣れているわれわれにとっては、「そうそう、反応は実にさまざま」と納得したり苦笑したりするような表現が並でいます。

 はじめに「非入会者の反応」ということで、結局伝道されなかった人々の反応を紹介していますが、興味深いことは、原理を完全に真理だと認めていながらも入教しない人がいるということです。自分には荷が重すぎると感じたり、そこまで清い生活はできないと言って逃げ出すということです。

 また、既に特定の宗教に対する強い確信をもって修練会に参加した場合には、それがバリアとなってみ言葉が入らないというのはよくあるケースです。原理と敵対する思想(共産主義やキリスト教根本主義)に染まっている人にとっては、原理は全面的に否定すべき思想となるでしょう。しかし大多数の人びとの反応は、他の多くの宗教と同じように、「信じることもできるし、信じないこともできる」というもので、原理の中に部分的な真理を認めるけれども、全面的には信じられないので入教しない、という判断をするようです。こうした人は修練会参加者の大多数を占めているのですが、彼らは自分なりの合理的な判断をしており、洗脳やマインドコントロールをされていないことは明らかです。

 「非入会者の反応」の分析で興味深いのは、「ムーニーは好きだが、統一教会の教えや組織は受け入れられないので入教しない」という人が多数存在することです。伝道対象者たちが統一教会員に対して抱く一般的な感情は、「親切」「善良」「好意的」という肯定的なものであり、中には異性の霊の親に対して恋愛感情を抱く人もいるにもかかわらず、食口にはならない者が多数いるという事実が存在するのです。これは私たちの経験では、霊の親に尽くされたことや修練会で愛されたことに対して感謝しているものの、入教することは決意できない伝道対象者が多数いるという事実と符合しています。統一教の伝道テクニックに対する批判の一つに、「愛の爆撃によって正常な判断力を麻痺させる」という主張がありますが、実際には伝道対象者たちの大多数は、霊の親や食口たちに対する人間的な感情と、メンバーになるかどうかということは「別の問題」として分けて考えていることが分かります。すなわち、人間的な感情が必ずしも信仰を誘発するというものではなく、最終的には「み言葉」が入らないと食口にはならない傾向にあるのです。こうした事実も、「マインド・コントロール」の主張に対する反証となります。

 続いて、一度入会してしばらくして離れた「離教者」の反応が紹介されます。一度「統一原理」を真理だと受け入れておきながら運動から離れるということは、それなりの勇気や決意のいることです。それは「真理であるにもかかわらず、自分はそれを否定して裏切ってしまった」という不安や罪悪感と闘わなければならないからです。中途半端な未練を持っていては教会を離れることができないので、離教者が教会の教えや修練会のすべてを意図的に否定しようとするのは、「自己正当化」のための自然な心理であるといえます。アンケートの言葉からは、離教者たちの精神状態は不安定であることがうかがえます。一度は強力な信念を持ち、後にそれを失った者たちなので、ある種の「アイデンティティーの揺らぎ」があり、自己に対するコントロール感に乏しいのでしょう。彼らの中に、「自分はマインドコントロールを受けていた可能性がある」とか、「ムーニーたちは騙されている、洗脳されている」といった発言をする者がいるのは、そうした精神状態に起因していると考えられます。元信者の証言は、現役の信者や非入会者と違って、このような「ネガティブ・バイアス」がかかっていることを抑えておく必要があるでしょう。

 次に、「非入会者」が、統一教会の修練会が自分にどのような影響を与えたかと感じているかが分析されます。興味深いのは、最終的に原理をすべて受け入れて入教することを拒否した者でさえ、統一教会の修練会で何か肯定的なものを学んだと感じている人が多いということです。具体的には「神への信仰が一段と強まった」「明るく生き生きとしている」「より楽観的になった」「より善良な人間になる方法を学んだ」「心が広くなった」「より道徳的になった」といったような変化が自分自身に起こったことを認めているのです。これは、「原理を全体としてではなく部分的に受け入れた」ということであると同時に、「組織としての統一教会に入ることは拒否したが、教えの一部を自分の人生哲学として取り入れた」ということを意味しています。現実には、修練会に参加した結論としてこのような選択をする人は多いと思います。教会側から見れば、「自己中心性や我を否定できなかったので結局はメシヤにつながることができなかった」という評価になるのでしょうが、「洗脳」や「マインド・コントロール」の有無という視点からとらえると、修練会参加者は統一教会が提供するものの中から「自分にとって都合の良い部分」だけを選択する能力があり、実際にそれを行使してているわけなので、決して選択の自由を奪われているわけではないことが分かります。

 続いて、統一教会に入会した人々の修練会に対する印象が紹介されます。入会を決定した理由は、「統一原理が真理だと知った」といったような「真理性」に焦点を当てたものと、食口たちの交わりによって情緒的な解放や慰めを得たという「愛情や人間関係」に焦点を当てたものに大別されます。「愛と真理によって伝道する」という統一教会の精神からすれば当然の結果であると言えるでしょう。西洋のメンバーたちが述べた「統一原理」に対する印象の言葉に、「気持ちがすっきりした。人生についての私の混乱した思考は、美しい絵のようになった。歴史は目的を持つようになった。それは神が自分の心の中にいるからだ」とか、「神は私を捜し出し、ご自身の真理を示したかったのだと感じた。私は常に探求し、疑問を提示し続けていた。そして初めて、私の疑問に答えが示された」といったものがありますが、これは日本人の回心者の感想と似通っており、普遍的な内容であると言えます。

 一方で、「創造原理」から「再臨論」までのどの部分に魅かれたのかという質問に対する回答にはばらつきがあり、人それぞれであることが分かります。このように、現在信仰を持っている現役の信者に回心の動機を質問して調査をすることは重要であり、宗教団体に対する社会学的な調査を行う上では必須であるということは、誰でも分かると思われます。しかしながら、「洗脳」や「マインドコントロール」を主張する人々は、こうした「当事者の声」に一切耳を傾けることなく結論を下すのです。

 続いてバーカー博士は、統一教会に入会した人々の「回心の体験」をインタビューに基づいて再現しています。宗教的体験の中でも「回心の体験」は古くから特異な体験として研究の対象になってきました。唯物的な思想を背景に持った宗教の批判者は、「回心の体験」を一種の異常心理や思い込みとして片付けようとしますが、そうした態度を「還元主義」として退け、宗教体験を他の事象に還元されない独立した現象としてとらえようとする態度を「現象学的アプローチ」と言います。それは回心を体験した「その人自身」にとって、どのような体験であったのかを本人の描写に忠実に再現しようとするもの(これを「内在的」理解という)で、キーワードは「事象そのものへ」です。これは自分なりの解釈によって事象を捻じ曲げることを極力排除した、客観的で科学的な態度ということができます。回心の体験についてこのような視点からの研究を開拓したのがアメリカの有名な心理学者ウィリアム・ジェームズ(1842~1910)ですが、バーカー博士もこの伝統にのっとり、統一教会への回心の体験を「内在的」に理解しようとしています。西洋の回心者の体験は、文化の違いはあっても、日本人の回心体験と似たものがあります。

 この章でバーカー博士が下した結論は、修練会に対する参加者の反応は実に多様で、「洗脳」や「マインドコントロール」が主張するように統一教会が狙った通りの画一的な反応を修練生から引き出すことは不可能である、というごく当たり前のものです。この章の最後に、バーカー博士は面白いエピソードを一つ紹介しています。彼女はクールな社会学者であるという側面を持ちながらも、人間に対する直感的な洞察力も持ち合わせていたようです。バーカー博士は参与観察をしながら、「回心しそうな人」と「しそうもない人」を見分けるのが得意で、メアリーという女性を最も「回心しそうな人」に選んで、二日間にわたって彼女の反応を慎重に見守っていたというのです。すると、再臨論の講義中に彼女が宗教的回心を体験した瞬間を目撃したのです。バーカー博士が「メアリーは行ったか?」と走り書きのメモをしたという記述がいかにもリアルで面白いです。原理が真理だと悟るというような宗教的体験は、非常に主観的で内面的なものであると同時に、ある程度は外側からも観察可能であることが分かります。

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