書評「ムーニーの成り立ち」07


第五章「選択か洗脳か?」(後半)

 このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第五章の「選択か洗脳か?」の後半部分を要約して解説します。

 洗脳やマインドコントロールを主張する学者たちの本質的な欠陥の一つが、科学的研究の基本であるはずの「対照群」との比較が欠如しているという点にあります。たとえば、ある宗教団体で自殺者が出たというとき、通常の感情的な反応は、その宗教に何か問題があったから自殺したに違いないという「憶測」です。しかし、科学的な思考を持った人はそのように考えません。バーカー博士は以下のように分かりやすく表現しています。「例えば、ある運動の会員の3%がある特定の年に自殺したということを知ったなら、これは明らかに懸念の原因となり、その運動のいったい何が人々をして自分の命を捨てさせたのかについて調査するのも当然だろう。しかしわれわれがまた、同じくらいの年齢で同様な背景を持った非会員の5%がその同じ年に自殺したということを知ったなら、そのときは、われわれはその運動には自殺を『思いとどまらせる』何かがあるのではないかと調査する気になるだろう。」このように、一つの運動について何かを知ろうとすれば、それはあくまで「他との比較」においてのみ意味ある知見を得ることができるということです。この章には、マガレット・シンガー博士の法廷証言も出ていますが、彼女は自分の主張を正当化するために、意図的にこのような比較検討を避けていることが見て取れます。

マーガレット・シンガー博士(1921_2003)

マーガレット・シンガー博士(1921_2003)

 アメリカにおいて「カルトによる洗脳やマインドコントロール」の存在を主張した中心的な学者であるマーガレット・シンガー博士は、中国や朝鮮の戦争捕虜となっていた国連軍兵士の追跡調査に一時期携わっていました。この経験を根拠に、彼女は洗脳テクニックに関する専門家を自称し、カルトの教化方法は北朝鮮や中国で用いられていた集団教化方法に類似していると述べたのです。彼女が調査した国連軍の兵士は物理的拘束を受けていた戦争捕虜であり、肉体的な拷問を頻繁に受けていました。もちろん統一教会の修練会では物理的な拘束も拷問も行われていません。こうした基本的な違いにもかかわらず、シンガー博士は両者の表面的な類似性だけを取り上げて、どちらも強制的なプロセスであると強弁しています。こうした議論の誤りを、バーカー博士は一つひとつ丁寧に整理しつつ、問題の核心へと迫っていきます。

 バーカー博士は「洗脳」をめぐる議論における極端な主張を避けて、科学的に判定可能な議論にするための概念整理を行っています。極端な主張の代表として挙げられているのが、「自由意志論」VS「決定論」という哲学的論争です。自由意志(free will)とは、他から束縛されず自らの責任において決定する意思のことを言い、決定論(determinism)とは、未来の事象は自然法則を伴う過去および現在の事象によって必然化されているという主張を言います。もしそうなら、自由意志による決定の余地はありません。「洗脳」があるかないかという問題は、人間の精神は環境から独立して自由なのか、それとも所詮は環境によってあらかじめ決定されているのかという古典的な哲学論争にしばしば入っていって、出口が見えなくなってしまいます。少なくともバーカー博士が行おうとしている社会学的研究にとっては、このような哲学的論争は意味がないので、もう少し科学的に検証可能なレベルの論点に絞り込みましょうということです。それは「選択」と「強制」という二分法であり、人が選択を行うとはどういうことか、人が強制されるとはどういうこ
とかを定義し、測定可能な科学的方法で判別できれば、意味のある結論を導き出せるのではないかと論じています。

 「人はなぜムーニーになるのか?」という問いに対して、さまざまな人がさまざまな解釈を施して説明してきたので、それらをバーカー博士は強制的なものから自発的なものまで、全部で9つのモデルに整理します。詳細な説明は本文に譲りますが、最も主要な要因を一つに絞って私なりに表現すると、以下のようになります。

①肉体的に監禁されていたから
②麻薬や催眠術などによって脳の機能を奪われていたから
③思考の内容が完全にムーニーに支配されていたから
(以上の三つが本当なら、修練会に参加した人は全員がムーニーにならなければなりません)
④修練会の環境に特別弱い生物学的特性を持った人がムーニーになる
⑤説得に特別に弱いタイプの人がムーニーになる
⑥社会に不適合を起こしている人が現実逃避のためにムーニーになる
⑦統一教会の示すものに魅力があるから
⑧無意識のうちに統一教会の教えや環境にマッチした
⑨自らの知識や過去の経験に基づいて意識的に統一教会に入ることを選択した。

 さてこの先、バーカー博士はこれらのモデルのうち、どれが一番現実に近いモデルであるかを、社会学的な手法を用いて解明していくことになりますが、その手始めとして、事実に符合しないモデルを否定して行きます。その仕分け方、さばき方は見事としか言いようがありません。

 上記の9つのモデルのうち、まずバーカー博士は最初の二つ(①肉体的に監禁されていたからと、②麻薬や催眠術などによって脳の機能を奪われていたから)を検証します。まずバーカー博士は自身の参与観察により、①の事実がないことを明らかにします。次に②に関しては、同じく参与観察により、統一教会の修練会においては麻薬やアルコールが摂取されることはないこと、食事も普通であること、催眠術や恍惚感を引き起こすようなお経や呪文が唱えられることもなく、大学授業のような講義が行われているだけであることを根拠に、やはりその可能性を棄却しています。また、修練会の影響下にあった脳の非常に高いパーセンテージが、信者になることを拒否したという事実からも、修練会の環境が脳の機能を低下させる働きことはないと指摘しています。これらは食口にとってはすべて当たり前のことですが、「洗脳」や「マインドコントロール」を信じる者たちは、その環境に人知を超えた神秘的な力が働いているから信者になるに違いないと思っているので、このような説明をするわけです。

 統一教会の修練会に参加した人々のうち、いったいどれくらいの割合がメンバーになるのかに関するデータを教会側が公式に発表したことは恐らくありません。み言葉を聞いて入教した食口の方々は、特に初期の段階においては「こんなに素晴らしいみ言葉なのだから、聞いた人のほとんどが感動して入教するに違いない」と思って、非常に高い割合を推定するのではないでしょうか? しかし、長い間伝道活動に携わっていると、霊の親に出会ってから実際に食口になるまでの道のりには様々な障害や試練が待ち受けていて、これらを乗り越えて信仰を持つ至る人の割合は非常に少ないことに気付くようになります。しかし、こうした事実は伝道の士気を下げるので、あまり公的に話されることはなく、数字を客観的に分析するという姿勢もなかったように思います。

 一方で、統一教会を「洗脳」や「マインドコントロール」などの用語で非難してきた人々も、その恐ろしさを強調するために、「修練会に参加したら最後、統一教会の魔の手から逃れられる者は非常に少なく、自己の意思に反して強制的に信者にさせられてしまう」などと主張してきました。ですから、統一教会側も、それに反対する側も、目的は異なりますが、修練会の説得力を非常に高いものと推定してきたのです。そこでバーカー博士が行ったのは、2日間の修練会に参加した人々の追跡調査であり、それを通して実際にはその後の教育プロセスで多くの者たちが脱落していき、ごく短期間でも入会したものは10%に過ぎず、その後もさらに脱落していくことを明らかにしました。これによって「個人の自由意思を剥奪して強制的に入教させる」という主張が事実として間違いであることを実証したのです。

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 【表5】は、統一教会の修練会で「洗脳」や「マインドコントロール」が行われていることを否定する、最も実証的な証拠ということになるでしょう。それは1979年にロンドンで2日間の修練会に参加した1017人の「その後」に関する追跡調査です。2Daysが始まった時点を100%とすると、2Daysの修了時には85%になり、7daysに参加するのは30%です。7days修了時にはこれが25%になり、21修に参加する時点で18%に減ります。これが21修終了時には15%となり、統一教会に入教を同意した者は13%となります。そして実際に1週間以上入会したものは10%となり、それが1年後には7%、2年後には5%に減り、1983年1月1日は4%に減っていたということです。つまり、食口として生き残る人の割合はごく少数なのです。

 日本においては外部の学者による統計調査は存在しませんが、統一教会伝道部が1984年~93年にわたって一部地域で行ったサンプリング調査があります。それによれば、その10年間にビデオセンター等につながって定期的に原理を学習するようになった36,913人のうち、2日間の修練会に参加した者が14,383人(39.0%)、4日間の修練会に参加した者が8,258名(22.4%)、そしてその中から実践活動を行う信者になった者が1,274名(3.5%)であるという結果が出ています。日本のシステムではいきなり修練会参加ではなく、ビデオ等でかなり学習してから修練会に出るので、「コース決定」からカウントするのが妥当と思われます。どの時点での人数を母集団とするかという比較の問題はありますが、最終的に食口になる割合がイギリスでも日本でも非常に似通った数字になっているとういうのは興味深い点です。いずれにしても、データによれば修練の過程において大部分の者が去っていることがわかり、統一教会の伝道方法は基本的に対象者の意思決定を強制する過程ではなく、教義を受け入れる者を選抜する過程であるという結論を出すのが妥当であると言えるのです。

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