シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」24


霊感商法の教訓(2)

2.経済活動の背後にあった禁欲の倫理
 それでは「連絡協議会」において、信仰と経済活動は具体的にどのように結びついていたのであろうか。一般的に世俗的な価値を超越した宗教と、最も世俗的な活動である経済活動は結びつきにくいものと考えられている。しかしドイツの宗教社会学者マックス・ウェーバーは、その古典的著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、禁欲的なプロテスタンティズムの倫理が西欧における近代資本主義の成立に強い影響を及ぼしたのであると主張した。(注1)この著作の中でウェーバーはまず、近代的企業における資本家・企業経営者の中でプロテスタントの占める比率が大きいのに対し、カトリック教徒の日雇い職人がいつまでも旧式の手工業にとどまろうとする傾向が強いことから、教育によって得られる精神的特性が職業の選択に影響を及ぼす指摘した。すなわち、プロテスタントは経済的合理主義を指向するのに対して、カトリックはそれに対して無関心であるということである。

マックス・ウェーバー

マックス・ウェーバー(1864年~1920年)

 ここで彼はカトリックが現世の財貨に対して無関心なのは、その教理と生活姿勢において禁欲的な面が強調されているためである、という一般的な見解に対して反論を展開する。実はカルビニストやピューリタンはもっと禁欲的であり、むしろ禁欲的で信仰に熱心であるということと資本主義的営利生活に携わることは、深く関連し合っていると彼は言うのである。すなわち、資本主義精神の発展は合理主義の巨大な発展の部分現象として一般には見られているが、実は資本主義の発展を生み出した企業家たちは、「事業のために人が存在し、その逆ではない」という、個人的な幸福という観点から見ればまったく非合理的な、禁欲的傾向をもっていたというのである。すなわち、彼らは「巨富を擁しながら自分のためには『一物ももたない』、ただよき『使命としての職業の遂行』という非合理的な感情」をもっていたのである。ピューリタンはこの精神の最も顕著な例であった。

 彼はこのような資本家たちは、自分の資本を増加させることを自己目的と考えていたと分析する。つまり彼らは「営利こそ人生の目的」であると考えていた訳であるが、その利益を自分自身の快楽のために使うことは厳しく戒められ、得られた利益はひたすら再投資された。つまり自己の快楽のために仕事をするのではなくて、ひたすら禁欲的に働き続けること自体が目的なのである。それは各個人の幸福や利益を越えたところに価値を置くという点において、非合理的なものであり、宗教的観念に近いものであるとウェーバーは言う。なぜ彼らはそれほどまでに自らの職業を神聖視したのであろうか? それは彼らが俗世における職業を単なる生活の手段と考えていたのではなく、「神から授けられた使命」であり、「義務」であると考えていたからである。したがって彼らにとっては世俗的義務を遂行することが神に喜ばれる生活であり、修道僧的禁欲は、現世の義務から逃れようとする利己的な動機に基づいている、とみなしたのである。言い替えれば、世俗の労働こそ神から与えられた「使命」であり、隣人愛の現れということになる。

 ここから、ウェーバーの「世俗内的・行動的・禁欲主義」と、「世俗外的・瞑想的・神秘主義」という宗教団体の類型論が生じるのである。ウェーバーによれば、前者のタイプは自分自身を「神の道具」とみなし、神の意志を実現するために世俗内において積極的に行動する。それに対して後者のタイプは個々人を神性の「器」とみなし、俗世から離れた所で瞑想することによって、聖なるものに満たされる神秘的な体験を求める。この類型論においては、統一教会の信仰はカルビニズムに代表されるような世俗内的・行動的・禁欲主義のタイプに近いように思われる。例えば統一教会のメンバーを身近で観察したジョセフ・フィッチャー教授は、「勤勉、倹約、自制、世俗内禁欲などのいわゆるカルビニストの倫理は、ムーニーたちの行動様式にはっきりと表れている」と述べている。すなわちそこには「倹約と喜びの遅延を伴う神中心の献身的な労働」という共通の特徴があるのである。これは全世界共通の統一教会員のエトスである。(注2)

 したがって統一教会の信者たちが集まって作った企業においても、禁欲的で信仰に熱心であるということと営利活動は深く関連し合っていたと思われる。彼らにとってその職業は「天職」であり、そのために熱心に働くことは信仰の証しであった。またその禁欲的な性格の故に、それによって得られた個人の所得を自己の快楽のために使うことは極力避けて、その多くを教会に献金したのである。このような状況を考えるとき、統一教会は霊感商法を行っていた主体ではないにしろ、結果的にそれによって利益を得た間接的な受益者であったということは否定できない。「連絡協議会」の活動によって統一教会の信者が増え、それに伴って献金も増えたことは事実だからである。しかしそれによってシンクレティズムや、信仰と経済活動の過度の結びつきという逸脱が生じてしまったことも事実であり、その意味で「連絡協議会」の活動は統一教会にとって功罪相半ばするものであった。

3.経済活動の偶像化
 ウェーバーによれば、宗教的な禁欲という倫理が資本主義というシステムを支えていたのは、ごく一時期だけであったという。すなわち資本主義が発達していくと、富の再生産という仕組みだけがひとり歩きしはじめ、それを支えてきた宗教的倫理は不必要なものとして置き去りにされていったのである。これはやはり経済活動そのものが信仰者の「究極的関心」となるということは、非常に不安定で危険なことであり、ときとして「経済活動の偶像化」という罠に陥りやすい、ということをわれわれに教えているのではないだろうか? カルビニストは経済的成功こそ神に選ばれた証しであるとして日々労働に励んだのであるが、これは容易に経済的実績によってその人の信仰を計るという見方につながる。これと同じことが「連絡協議会」で起こったとすれば、それが意味するのは、本来は経済活動から独立しているはずの宗教的価値が、経済活動の実績によって計られたということであり、あきらかに統一教会本来の伝統から外れるものである。なぜなら統一教会の本来の伝統は、個人の価値の中心を心情と人格に置くからである。

 E.フロムに言わせれば、カルビニストたちやピューリタンたちの精神状態は強迫神経症の典型的症状であり、自分が思い込んだことの客観的証拠を勝手に作り上げて、それを毎日確認するという作業に没頭しているのだという。(注3)この主張をそのまま受け入れることはできないが、もし経済的な実績によって自己の究極的な価値が決定されるというような世界観をもった人がいたならば、その人の経済活動に対する姿勢は過激になり、実績が上がらなければ精神的に不安定になるだろうということは容易に想像できる。壷や多宝塔の販売活動において一部行きすぎた行為が行われたのは、このような心理状態が影響していたのではないかと推察される。このような観点からも、経済活動が信仰と過度に結びつき、「究極的関心」の次元にまで高められてしまうとき、その経済活動が社会的な相当性を逸脱したものになりやすい、ということも理解できるのである。

 経済的な実績を多くあげればその分多くの献金を捧げることができ、多くの功徳を積むことができる、という発想は理解できる。しかし新約聖書のルカ伝21章においてイエスが述べている「貧しいやもめのたとえ」にもあるように、金額の多寡よりも、その献金を捧げるときの信仰と精誠こそが最も重要である、というのが献金の原則である。これを再度教会員たちに徹底して指導していかなればならないというのが、霊感商法問題から統一教会が得た教訓であったように思う。

(注1)以下の記述は、マックス・ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 岩波文庫、1989年を参照し、要約したものである。
(注2)Joseph Fischer, “The Holy Family of Father Moon” Kansas city: Leaven, 1985

エーリッヒ・フロム

エーリッヒ・フロム


(注3)エーリヒ・フロムは、1950年に発表した『精神分析と宗教』の中でこの説を展開している。

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