書評「ムーニーの成り立ち」03


第二章「統一教会:その歴史的背景」

このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第二章の「統一教会:その歴史的背景」を要約して解説します。この章全体を通して面白いのは、私たちがあまり知らなかった西洋における統一教会の歴史が分かることです。

初めに、韓国における運動の起源が語られています。私たちがよく聞いてきた「主の路程」の内容を要約したようなものですが、西洋の初期の文献に典型的に含まれている間違いが一つあります。それは、お父様がイエス様と霊的に出会ってメシヤとしての召命を受けた日付を、「1936年のイースターの日」としているところです。実際にはお父様が啓示を受けた日は、1935年4月17日です。これは、「お父様は16歳のときにイエス様から啓示をうけた」という情報と、「お父様は1920年に生まれた」という情報から計算されているのですが、そもそも韓国では生まれたときに1歳と数えるのに対して、日本や西洋では0歳と数えるという文化的な違いを知らずに、断片的な情報をつなぎ合わせてストーリを作るのでこういうことが起きるのです。日本の初期の文献にも、こうした間違いは結構存在しましたが、歴史編纂事業が精密になっていくにしたがって、次第に修正されていったのです。この部分は、当時英語で入手することができた文献に依拠せざるを得なかったが故の限界であり、バーカー博士の社会学的研究の信憑性を傷つけるものではありません。

統一教会の起源に対するバーカー博士の理解は、非常に注目すべき慧眼であると思います。「統一教会は、その存在を基本的に文鮮明に依存している。」「その神学は、個々の部分においては新しくはないが、しかしその『構造』において、つまりその全体として、それは独創的全体なのである。そしてその起源、全体としての像の唯一の起源は文自身である。」という彼女の結論は、シンプルでありながらも正鵠を射ており、信者にとっては当たり前でも外部の社会学者がここまで理解するのは大したものだと思います。

記述が西洋における統一教会の歴史に入り、日本人がよく知らない内容に入ってくると、かなり面白くなってきます。日本における摂理史の講義では、米国の開拓伝道の使命を受けてお父様から送られた宣教師は、金永雲先生であったと教えらえています。これは、「最初に送られた宣教師」という意味では正しいと思いますが、実際には金永雲先生から米国統一教会の全体が生じているわけではありません。実は少し遅れてですが、同じような時期にデヴィッド・キム(金相哲)先生、朴普熙先生、そして崔翔翊(西川勝)先生も渡米しており、それぞれが独自に伝道してグループを作っていきます。「オークランド・ファミリー」で活躍したオンニー・ダーストの存在もこの本では重要視されています。

私が統一神学校にいたころ、西洋のメンバーはこの時代の統一教会を「士師時代」のような時代であったと表現していました。つまり、それぞれの「カリスマ的リーダー」の下にバラバラの状態で統一教会が存在し、まだ統一されていたなかったということです。これがお父様の渡米によって「統一王国時代」に移行していくことになるんだそうです。

この章には、私の個人的に知っている人物が多く登場します。デヴィッド・キム先生は私が統一神学校にいたころの学長でしたし、朴普熙先生は自伝的著書『証言』の翻訳を行いました。ベイエリアの統一教会の歴史を書いたマイク・ミクラ―氏は、私が統一神学校にいたころに「キリスト教会史2(中世後期から現代まで)」を習った教授でした。

お父様と金永雲先生

お父様と金永雲先生

お父様とデヴィッド・キム先生

お父様とデヴィッド・キム先生

バーカー博士の記述は、米国統一教会の草創期の様子がよく分かり、なかなか面白い内容です。米国を開拓した人物である、金永雲先生、デヴィッド・キム先生、朴普熙先生、そして崔翔翊(西川勝)先生の4人は非常に個性の異なる人物であり、同じ統一教会であっても、こうした指導者の個性の違いによって、非常に異なる性格を持った集団がそれぞれ形成されたことが描写されています。しかも、それぞれが個性的であっただけでなく、互いに自律性を主張し合って、誰かの下に入ることを拒んだため、アメリカにおいては国家次元の運動を構築するための試みがことごとく失敗するという結果を生んだというのですから、この辺はいかにも韓国人らしいなと思います。

日本においてはあまり意識されないことですが、統一教会の米国における伝道が最初に成功を収めたのがサンフランシスコ・ベイエリアであったということは、その後の運動の方向性に大きな影響を与えたのではないかと思います。1960年代のベイエリアと言えば、ヒッピーが主導したカウンターカルチャーの中心的な拠点でした。アメリカにおいては、こうした人々の中から初期の統一教会の信徒たちが導かれていったのです。
続いて、「日本の経験の影響」という見出しのもとに語られている内容は、私たち日本の食口にとっては衝撃的です。バーカー博士は、「統一教会日本支部によって得られた教訓は、西洋における運動の後の発展にとって決定的に重要なものとなった」と断言しています。私たち日本の食口は、日本から送られた宣教師たちが世界各国の統一教会に大きな影響を与えたことは認識していますが、アメリカ統一教会の開拓期・草創期に与えた日本の影響についてはあまり認識していません。しかし、バーカー博士によれば、統一教会の成功パターンは日本で確立され、それが西川先生によってカリフォルニアに持ち込まれ、それまで無計画で形式のなかったアメリカの統一教会に変革をもたらしたというのです。その成功パターンとは、高度に洗練された「修練会」と専属スタッフの養成、そして「共同生活」という日本統一教会独自のライフスタイルだと言います。そして「初めから正体を明かさない」という現在では批判されている手法も、日本から持ち込まれたものであるとされています。

さて、1959年に金永雲先生によって初めて統一原理がアメリカに伝えられますが、1971年ごろまでに崔翔翊(西川勝)先生の「国際再教育財団」、金永雲先生の「統一家庭」と、デヴィッド・キム先生の「統一信仰社」が米国内に鼎立しており、「それぞれのグループは独自のニューズレター、独自のメンバー、独自の原理解釈をもっていた」とされています。この中で最も数的・社会的に発展したのが西川先生のグループのようですが、バーカー博士の記述(恐らくかなり正確)を読む限りでは、宗教というよりは一種のユートピア運動のような感じです。西川先生のグループは、かなりの部分が西川先生独自の思想と経営手腕の上になりたっていたようです。

勝共連合が韓国と日本で設立されたのは1968年のことですが、アメリカにもやや遅れてその影響がやって来ることになります。続いて、アメリカにおける初期開拓の時代が終わりを告げ、新しい段階へと入っていく様子が描かれています。そのきっかけは、お父様が3次にわたる世界巡回を行って祝福が「世界化」されたことと、お父様が本格的にアメリカに移住されたことです。アメリカの運動が開拓者の個性によって三つに分裂していたことは説明しましたが、お父様がアメリカに乗り込んでくることにより、「サタンとアメリカのファミリーの分裂に対してハリケーンのように激怒して、それらは一つである」と叫び、「ミス・キムのグループも、ミスター・キムのグループも、ミスター崔のグループもない。それらは全部ミスター・ムーンのグループだ」と言われた、という生々しい話が伝えられています。これはある意味、開拓した先生方にとっては自己否定だったのではないでしょうか? その後は、お父様が精力的に全米巡回公演を行うことによってアメリカの統一教会が力強く動き出す様子が描かれています。この時代の統一教会はまだ若く、躍動感にあふれています。

続いて、ベリータウンの神学校の創設、リトルエンジェルスの世界巡回、科学の統一に関する国際会議、国際指導者セミナーなど、同時代を生きた人にとっては非常に懐かしい話が出てきます。しかし、摂理史の講義と違うところは、バーカー博士は「統一教会は、名声だけでなく悪名をも得つつあった」という非常に客観的な描写をしているところです。とくに、ウォーターゲート事件の際にお父様が公的にニクソン大統領を支持したことは、われわれは共産主義の拡大を食い止めるためには摂理的に必要なことであったと理解しているのですが、バーカー博士によれば、アメリカの国民は「ニクソンと統一教会のどちらに対しても共感を示さなかった。根本主義のクリスチャンたちに左翼の過激派が加わって、運動に反対するデモ行進を行った」ということです。ニクソン大統領の件は、朴普煕先生の著作『証言』の上巻にも出てきますので、内外の観点を両方読み比べてみるのも面白いと思います。

このころからアメリカの統一教会は本格的な反対運動に出会うことになりますが、それが1974年ごろから出現した「ディプログラミング」です。これは拉致監禁・強制改宗のアメリカ版ということになります。日本で森山諭牧師が初めて監禁による強制改宗を行ったのが1966年と言われていますが、それから約8年後にアメリカでも行われるようになったことになります。興味深いことに、どちらかがどちらかに教えたということではなく、日米で独立して無関係に始まったということです。1979年半ばまでに400人の統一教会メンバーがディプログラミングを受け、その半数強が離教したということですから、アメリカの教会のサイズに比較して、かなり大きな被害だったことが分かります。バーカー博士の記述で興味深いのは、アメリカにおける食口の数がどのくらいかに関して、極めて不統一で幅の広い数字が伝聞情報として挙げられていることです。時系列的に表示すると以下のようになります。
1967年:約50人
1970年:300人以下
1971年:300人
1972年:400人
1973年:500人
1974年12月のニール・サローネン会長の報告:3000人
1974年のロフランド(外部学者)の資料:2000人(うち600人は外国人)
1978年のニール・サローネン会長の報告:会員35000人、フルタイム7000人
1979年のニール・サローネン会長の報告:会員37000人、フルタイム7000人
1981年のより信頼できる情報提供者:1800人
こうしてみると、アメリカのフルタイムの食口は多い時で2000人から3000人であったとみるのが妥当であり、ニール・サローネン会長の報告は明らかに誇張であったのではないかと思えます。もっとも、アメリカ伝道のために世界中から(特に日本から)投入されていた食口の数が、アメリカ人の食口の数よりも一時期はるかに多くなったというのであれば、「フルタイム7000人」ということもあり得ますが・・・

アメリカはお父様が投入して摂理的には大きな出来事があり、ワシントンタイムズをはじめとする重要な機関が生まれました。そして多くの優秀なアメリカ人の食口が復帰されましたが、宗教団体としての規模は日本に比べるとはるかに小さかったというのが事実ではないでしょうか。

『ムーニーの成り立ち』が出版されたのは1984年であり、私が入教したのが1983年ですから、この本の歴史の記述は私が教会に来てまもなくの時点で終わることになります。この本では、統一運動の歴史はICUS、CAUSA、世界平和教授アカデミーなどの活動のほかに、救国世界大会(1975)、日本の「世界日報」創刊(1975)、ヤンキー大会、ワシントン大会(1976)、フレーザー委員会(1978)、映画「オー仁川」制作(1982)、ワシントン・タイムズ創刊(1982)、韓国10か都市講演(1983)などで終わっています。私が1983年の夏に入教してしばらくして、12月にお父様の韓国10か都市講演があり、そのときに興進様の交通事故がありました。そして84年の初めに興進様が昇華されます。そして85年にお父様がダンベリーに入られたわけですが、『ムーニーの成り立ち』はその前に出版されたので、入獄される直前の教会の様子で描写が終了しています。そのころ私は、大学2年生でCARPのメンバーでした。ここで初めて、「文書として書かれた統一教会史」と「自分が体験した統一教会史」が連結されることになります。

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