書評「ムーニーの成り立ち」02 


第一章「接近と情報収集」

このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。第一回の「謝辞と序文」に続いて、今回は第一章の「接近と情報収集」を要約して解説します。

『ムーニーの成り立ち』の英語版原典=The Making of A Moonie

『ムーニーの成り立ち』の英語版原典=The Making of A Moonie

この章ではバーカー博士と統一教会の出会いや、研究方法についての詳細が語られています。研究の独立性を保とうとするバーカー博士と、研究はしてほしいけれども情報の漏えいを恐れるイギリス統一教会のやりとりは、非常に興味深い内容になっています。

バーカー博士の関心の中心と研究課題は、以下のように端的に述べられています。
「私の研究の主要な目的は、・・・文(Moon)についてではなく、ムーニー(Moonie)についてである」「文鮮明がメシヤであるかどうか、あるいは彼自身がそう信じているかどうかを見いだすことは、私の研究の中心的探究ではなかった」「どのような状況下で、教養ある西洋の若者が韓国出身の人物に従い、一連の信条を受け入れ、ライフスタイルを取り入れ、両親や友人や社会全体から見れば奇妙で、間違っていて、不自然な行動をするのか?」

したがって、この研究はお父様ご自身に関するものではなく、お父様を信じる信徒たち(ムーニー)に関するものであることは明らかです。そして、一般人なら「洗脳」や「マインド・コントロール」という言葉で片付けてしまう疑問を、真剣に学問的に検討しようとしていることが分かります。

さて、宗教現象を理解する方法論には大きく分けて二通りあります。一つは「外側からの理解」で、これは行為者に対する感情移入を排し、自分が拠って立つ社会規範を基準として当該行為を分析し、批判する姿勢を言います。もう一つは「内側からの理解」で、その行為を行っている当事者にとってどのような意味があるのかを理解しようとする姿勢を言います。これは「内在的理解」「共感的理解」「現象学的アプローチ」などとも言われ、異文化理解や学問の世界で使われる方法です。バーカー博士はこのことを「他の人々の観点から世界がどのように見えるかについて、ある種の共感的な理解を得ようとする試みにおいて用いられる方法は、しばしば『verstehen(理解社会学)』と呼ばれる」と説明しています。

このための手法としてバーカー博士が取った方法が、「インタビュー」と「参与観察」です。バーカー博士のインタビューは、通り一遍のことを形式的に聞くのではなく、「ムーニーがわれわれはもはや赤の他人同士ではないと感じることができる雰囲気をつくる」ほどに本音を聞きだすもののようです。また、「参与観察」ではメンバーと共にいろいろなセンターに住んだり、一連のセミナーあるいは「修練会」にも参加しており、それは宗教の実証的研究はかくあるべきというほどの徹底ぶりです。これに比べると櫻井義秀氏の『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』は、あえて統一教会と直接関わることを避け、統一教会と敵対関係にある弁護士から提供された「元信者」の証言を基に論じているという点で、研究対象との距離が相当にあると言ってよいでしょう。

この章には、英語で「Heavenly deception(天的詐欺)」と呼ばれる刺激的な内容が登場し、バーカー博士自身の言葉では、以下のように表現されています。
「研究者が常に自分自身に問わなければならない一つの問いは、自分の情報提供者をどこまで信頼できるかということである。私は常に、ムーニーは『天的詐欺』(サタン世界で神のみ業を進めるために許容される嘘をつくこと)を行っているので、ムーニーから得る情報はすべて無価値だ、と警告され続けた。」

原理講論にはもちろん「天的詐欺」という言葉はありませんが、ヤコブがエサウから長子権を復帰するために知恵を使ったことを、天の摂理を進めるために必要なことであった描いていますし、聖書の中に出てくるヤコブが父イサクを騙したという話も、それを倫理的にいけないことだと非難するよりは、基本的には神の摂理として捉えていると言えます。日本の教会では「天的詐欺」という言葉が使われたのは聞いたことがありませんが、「ヤコブの知恵」という言葉は聞いたことがあります。

しかし、バーカー博士の記述によれば、調査研究の為に参与観察をしている彼女を統一教会側が組織的にだまそうという試みはなかったとハッキリ言っています。一方で、個々のムーニーが嘘をつくということは実際にあり、それはイギリスよりもアメリカで多かったと言いいます。バーカー博士の記述から浮かび上がってくるのは、むしろとても「マインド・コントロール」されているとは思えない、思ったことを率直にしゃべり、本音で行動している西洋のメンバーたちの姿です。

統一教会に「天の摂理を進めるために意図的に嘘をつく」という文化があるかどうかは、国により、時代により、部署によって異なっているのであり、一概には言えないと思います。「ムーニーに嘘をつかれているとすれば、それをどのようにして見破るか」という観点で行動していたバーカー博士の参与観察は、さながらスパイのようであり、非常に面白いと感じました。もしバーカー博士が日本語を話せて、どこかの教会に住み込んで参与観察したら、一体どんな結論を出すでしょうか? そしてそもそも、日本の統一教会はそうした宗教学者による参与観察を受け入れるだろうか、というようなことを考えてしまいました。

バーカー博士はこうした研究の方法論的な問題として、参与観察を行っている研究者が研究対象に与える影響ということについても述べています。自然科学の研究者と違って、社会科学の研究者は観察する対象と何らかの関係を持たなければならないので、完全に研究対象から分離独立された存在とはなりえず、必然的に影響を与えてしまうということです。彼女は統一教会の21日修練会に参加して原理講義演習までやっています。その講義を聴いて、まだ確信を持てなかった修練生の一人がお父様のメシヤ性を確信してしまったというのですから、本人はさぞや焦ったに違いありません。それとは逆の事例(話を聞いて中間位置の人が離れることを決断した話)も紹介されていますが、このような影響を100%回避するのは不可能だということでしょう。

これらは意図して起こったことではありませんが、バーカー博士が意図的に介入した問題の一つが、統一教会信者と両親の関係を仲裁する仕事であり、彼女はしばしば「メンバーが親族と連絡を取るように、運動の指導者が取り払うよう説得しようと試みた」と言っています。彼女は教義の真偽、教団の善悪に対しては客観的で中立的な姿勢を貫いても、親子の離反は修復すべきだという価値観を持っていたということです。私はバーカー博士に会ったことが何度もありますが、優秀な学者であると同時に、温かい心の持ち主であると感じました。

これまで私がバーカー博士から受けたアドバイスで印象に残っているのは、「日本の統一教会では年老いたメンバーの老後のケアーのための年金システムのようなものを作っているのか? モルモン教やエホバの証人は優れたシステムをすでに作っている。統一教会も早く取り組むべきだ」というものでした。バーカー博士が統一教会からも受け入れられ、反対している両親からも受け入れられたのは、このような温かい人柄の故ではないかと思います。

続いてバーカー博士は、アンケートの取り方やサンプルが全体を反映しているかどうかなどのテーマを扱っており、この部分はさながら社会学の教科書のような内容です。その記述で興味深いのは、これまで統一教会について語られてきたことの多くが、ディプログラミングを受けて教会を離れた元信者の証言に基づいているという指摘です。こうした「偏った情報源」から得られたデータは、全体を代表するサンプル・データではなく、統一教会の実像に関する客観的な描写とはなりえないということです。しかし、これを主張するためには、全体を正確に反映するサンプリングとはどのようなものなのかを学問的に規定し、その方法論を記述した上で実践したなければなりません。バーカー博士の著作の優れている点は、自分が用いた方法論を細部にわたって記載して情報開示していることです。したがって、彼女に反論するためには、同じくらい社会学的に周到な方法論で取ったデータをもとにして反証しなければならないことになります。いまだかつて、それをやった人は西洋にも日本にもいません。

バーカー博士の社会学的研究において優れていると思われるところは、ムーニーの属性について何かを語ろうとするとき、必ず「対照群(Control Group)」との比較によって、統計学的に意味のある性質を見出そうとする姿勢です。つまり、ムーニーについて何かを知ろうとすれば、ムーニーだけを調べていては分からないということです。ある集団の属性について調べるには、同世代で同じような背景を持っていながら、その集団に属さない人々と比較してみて初めて「他の人々とは違ったその集団に顕著な特徴」を特定することができるということです。そのために、彼女は「非ムーニー」や、修練会に参加したけれどもムーニーにならなかった人々にも広範にアンケートをとり、それらと対照することによって、統計学的に有意差のある「ムーニーの特徴」を浮かび上がらせようとするのです。これこそが科学的な態度と言ってよいでしょう。

実際に統一教会の食口に出会い、その人の印象に基づいて「統一教会はこういうところだ」という人はいるでしょう。しかし、それは統一教会員に限らない人間一般の性質かも知れないし、たまたまその人が持っていた個人的属性である可能性もあるのです。そのような主観的な思い込みではない客観的な検証をするには、十分な量のデータをとり、それを対照群と比較して有意な差があるかどうかを測定するしかありません。こうして取ったデータの詳細を、バーカー博士は著書の中で公開しています。これだけ社会学的に周到な方法論を用いているかこそ、彼女の研究は他の追随を許さない高い評価を受けているのです。

バーカー博士は自分の過去の研究日記を紐解きながら、「研究こぼれ話」のような内容も語っています。統一教会は「洗脳を行う恐ろしい集団」というイメージがマスコミによって広められているため、いかに冷静沈着な宗教社会学者といえども、調査研究のために中に入っていくのはかなりの勇気が要ったと思われます。ですからバーカー博士も研究の初期段階には疑心暗鬼の塊のようで、「007的戦術」と呼ばれる調査方法を取っていたことを述懐しています。統一教会を取り巻く噂の中には、後から根も葉もないことを知って笑ってしまうような荒唐無稽なものもあったようですが、最初の段階では何が本当で何が嘘なのか分からないので、一つ一つ確認していくしかありません。

バーカー博士が運動の核心に迫り、統一教会的な発想や思考法を理解できるようになってくると、今度はそれを教会の外部の人にどのように「翻訳」して伝えればよいのかを悩むようになります。それほど、世界観の違う人同士がお互いを理解するのは難しいということでしょう。バーカー博士は、統一教会の教理を信じたわけではないにもかかわらず、食口たちと違和感なく会話ができるほどまでに統一教会式の思考方法を理解したという点においては、類稀なる「共感能力」の持ち主であると言ってよいでしょう。

しかし、その「共感」は研究のためのスキルであって、統一教会の信仰を持ったということではありません。社会学者という存在は基本的に研究対象に対して真偽や善悪の判断をしません。これは統一教会に対しては「どっちつかずの態度」ということになるのですが、バーカー博士のそのような姿勢は、反対者からは「好意的すぎる」と責められ、統一教会員からは「正確だが、退屈だ(感動がない)」と責められることになります。要するに彼女の統一教会に対する姿勢は、その核心においては常に冷めていたということなのです。社会学者としては当然のことです。

ここで、少し社会学を離れて、神学的な議論に入っていきましょう。バーカー博士は、ムーニーたちは「人は何かを善あるいは真理だと信じない限り、それを理解することはできないと考えているように見えた」と述べています。彼女はこの考えに反対しており、「私は、必ずしも彼らが正しいと同意しなくても、他の人々の視点からの物事の見方を学ぶことは完全に可能だと信じている」という言葉が、彼女の見解になります。

「はたしてバーカー博士は本当に統一原理を理解していたのか?」という問いを立ててみるときに、神学的には疑問符が付くことになります。バーカー博士は「理性の人」ということになりますが、果たして信仰なしに理性だけで「統一原理」を理解できるのかという問題です。

統一教会の食口には、「ただ頭で考えていただけでは原理は分からない。信じて実践してみて初めて原理が宇宙の真理であることが実感できる」と考える人が多いのではないでしょうか? これは一つの神学的立場としては成り立ちます。ところが、社会科学者が研究対象の信仰を自分自身のものとして持ってしまったら、客観的研究者としての位置を離れてしまうことになってしまいます。それはできません。ですから、バーカー博士は研究対象としての統一教会に対する膨大な知識を蓄積することができたとしても、自己の魂を救済するのための「真理」に出会うことはない、ということになってしまうのです。ここに神学と社会学との間に横たわる深い溝があるのです。

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