シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」21


「霊感商法」批判の視点(2)

新宗教をいかがわしいとか病的だとか言って批判するマスコミは、自らは正義の見方であるかのように振る舞っている。しかしその批判の論拠は驚くほど脆弱なものである場合が多いし、その点が深く考察されることもない。そもそも彼らは情緒的に粉飾されたイメージをたれ流すだけで、なぜそれを批判するのかという論拠や、自らがよって立つ世界観を明確にすることはない。もし彼らが死後の世界とか霊界などというものは存在しない、神も仏も人間が勝手に作り上げた概念である、という思想的な立場を明確にして新宗教を批判するのであれば、論争はもっとポイントの絞れた合理的なものになるであろう。

しかしそれを明らかにしてしまうと、新宗教だけではなくすべての宗教を敵に回さなければならなくなる。仏教の説く極楽浄土も、キリスト教の天国も、死後の世界について人間が抱いた妄想ということになるし、さらに葬送儀礼や年中行事などの宗教的風俗も、非合理的なものとして排除しなければならなくなってしまう。しかしそんなことを言っても彼らにとっては何の得にもならない。だからそういったことには目をつぶったまま、もっぱら矛先を新宗教にのみ向けるのである。

新宗教の教義や実践を彼らが「迷信」とか「虚偽」とか言って否定するのは、恐らく相手には逆襲するだけの力がなく、無条件で非難攻撃したとしても誰からもとがめられないと思っているからである。すなわち「新宗教=悪」とみなす日本の精神的風土を、彼らは本能的に知っているのである。そこには伝統宗教と新宗教の教義・実践を比較検討し、冷静に分析してみようという姿勢はまったく見られない。ただ社会に公認されているか、公認されていないかという区別と、好きか嫌いかという恣意的な感情があるだけである。そして「公認=好き=善」、「非公認=嫌い=悪」というレッテルが存在し、それにしたがって報道のトーンが決定されるのである。

3.民俗宗教的なものに対する蔑視
霊感商法の本質は既に述べたように民俗宗教的なものであったが、このような大衆の宗教性が価値を認められるようになるには長い時間がかかった。いや、すべての宗教を公平に見ようという意識的な視点をもった宗教学者を除いては、いまだに偏見が横行していると言っていいであろう。人間が他者の宗教を真に公平な立場で扱うことがいかに難しいものであるかは、キリスト教の異教に対する態度が長らく侮蔑的なものであったことからも分かる。彼らはそれを「異教の迷信」と呼んだのである。このような民俗宗教に対する蔑視は非常に根深いものであり、フレーザーにおける「呪術」の概念にも表れている。フレーザーはイギリスの社会人類学者で、全世界の民族誌資料を博捜して集大成した「金枝篇(The Golden Bough)」全13巻がその代表作である。彼は未開人の宗教の本質を「呪術」としたが、それは何らかの目的のために、超自然的存在(神、精霊その他)あるいは呪力の助けを借りて、種々の現象を起こさせようとする行為を意味した。

イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザー(1854年~1941年)

イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザー(1854年~1941年)

フレーザーは、人類の思考様式が「呪術→宗教→科学」という三段階の過程を経て進化すると考えた。彼によれば「呪術」とは類感と感染の二原理によって世界を操作しようという誤った技術であるという。それは非科学的な誤った因果律(たとえば、憎んでいる人を模した人形を傷つければその人本人を傷つけることができるとか、降雨と雷鳴を真似た水撒きや太鼓たたきを行うことによって雨乞いする、といった論理)に基づいているため、必ずいつかは失敗する。その失敗の自覚から超越的なものの前にひれ伏す「宗教」が生まれ、またさらには人間の能力の限界内で論理的・実験的に世界に対処しようとする「科学」が生まれた、というのである。すなわちフレーザーは、呪術は人間の力で現象をコントロールしようとする試みという点において科学に類似しているが、間違った観念連合ないし因果律に基づいており、この誤謬が認識されて、宗教が生まれると論じたのである。

このような「宗教」と「呪術」の分類は、16世紀から20世紀初頭までヨーロッパで主流を占めていた知識の分類法に基づいている。ヨーロッパの哲学は16世紀以来、知識というものを(1)実証的に検証できる科学的知識と(2)経験的な検証を経ずに主張される教義的知識とに分けてきた。この教義的知識はさらに、a.宗教的信仰のように、本質的に検証できない知識と、b.検証によって誤謬が証明される知識とに分類される。このような知識の分類は、フレーザーによって、(1)科学、(2a)宗教、(2b)呪術、という形で受け継がれ、進化論的に図式化されたのである。(注1)

ここにわれわれは宗教理解におけるダブル・スタンダードの典型を見る。フレーザーが科学的な検証によってその誤謬が証明できる「呪術」に分類したのは、主として未開人の宗教であり、科学的な検証を超越した知識である「宗教」に分類したのは、キリスト教をはじめとする普遍宗教であった。しかし真に客観的な視点から見れば、三位一体や神の受肉、イエスの処女懐胎や肉体の復活などのキリスト教の教義は、非科学的・非合理的であるという点については未開人の呪術となんら変わりがないはずである。しかしこれらの教義は自分が所属する宗教伝統において広く公認されている非合理であるために、それは科学的検証を「超越したもの」であるととらえ、一方で未開人の非合理性に対しては容赦なく科学の名によって誤謬性を攻撃する。これは明らかにダブル・スタンダードである。実は両者の本質的な違いは、同じ非合理でありながら自分が文化的な親和性を感じているか否か、という主観的・恣意的なものでしかない。

これは日本における(1)科学、(2a)伝統宗教、(2b)淫祠邪教という分類に見事に対応する。マスコミも弁護士も、伝統宗教に対しては科学を根拠にしてその非合理性を攻撃することはしないが、新宗教や社会的に公認を得ていない宗教現象に対しては、容赦なく科学の名をもってその非合理性を攻撃する。すなわち彼らは宗教学の歴史でいえば20世紀初頭の世界観を抜け出していない、ということになるのである。冷静に両者を比較してみれば、(2a)と(2b)には本質的な差異はないのであり、それらを区別することは他宗教を「異教」とか「外道」と呼んで蔑視するのとあまり変わらないエスノセントリズム(自民族中心主義)である、ということに学問的な研究は既に気付いているのである。したがって宗教と呪術の間に明確な線引きをすることはできず、伝統宗教と新宗教も、その違いは出現した年代が異なるというだけであって、そこからくる性格の違いこそあれ、両者の間に価値的な優劣をつけることはできないというのが、宗教学の基本的な立場なのである。このような背景を知ってみれば、霊感商法を「虚偽」とか「錯誤」と規定する視点は、呪術を宗教と区別して蔑視する旧来の偏見に基づいていると言わざるを得ないことが分かるであろう。

霊感商法と言われ批判された現象に、まったく問題がなかった訳ではない。しかし弁護士やマスコミの主導で行われた霊感商法批判の本質は、冷静な事実の分析と言うよりは偏見に基づいた一方的な攻撃であった。霊感商法批判の視点は、開運商品を購入して感謝している人々の内面世界については何らの理解も示していないという点において、明らかに偏っている。さらに外面的な事実の分析も、サンプリングの偏りやその解釈において明らかに悪意に満ちており、客観的とは言いがたい内容であった。すなわち彼らは事態を客観的に究明する以前に頭の中で結論を作ってしまっているのである。これはことの本質が「相異なる二つの世界観の激突」だからである。霊感商法という現象を奇異に思って攻撃するのは、それを信じる人々の内面世界が理解できないからであり、不気味だからである。そのような価値判断が先行している以上、ことの本質は見えてこない。したがって、霊感商法とはなんであったのかをより公正に理解するためには、このような視点の偏りを是正し、敵意や嫌悪などの恣意的な感情を取り除いた冷静な分析を、最初からやり直す必要があるのである。

(注1)吉田禎吾「呪術」(『宗教学事典』p.367-73)

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