書評「ムーニーの成り立ち」01 謝辞と序文


 先回までは、紀藤正樹著『マインド・コントロール』の批判的検証シリーズを8回にわたって投稿してきましたが、ここでまたその前のシリーズと関連したテーマにしばらく戻ろうと思います。2015年8月26日をもって、2013年12月18日から1年8カ月あまり、全89回にわたって連載してきた、アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳シリーズが終了しました。このシリーズは一冊の本を全訳したという点では意義のある事業であったとは思いますが、あまりに長く続いたので全部通して読んだという方はほとんどいないのではないでしょうか? そこで今回から、この本のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」をシリーズでお送りします。「書評」と言ってもかなり長いものになる予定で、基本的には章ごとに分けて解説していこうと思います。この内容は、私のブログ更新をFacebookで宣伝するときの解説文をもとにして再構成したものです。全体をコンパクトに要約することにより、バーカー博士の議論をより分かりやすい形でお届けできればと思っています。

Eileen Barker photo

若かりし頃のアイリーン・バーカー博士

 翻訳は「謝辞」から始まりました。通常は「謝辞」というのは「誰々にお世話になったことを感謝する」という人名の羅列であることが多く、無味乾燥でつまらないものになりがちなのですが、この本の場合には少し面白みがあります。アイリーン・バーカーという学者は、いわゆる「本から本を作る人」ではなく、人間と出会って、第一次情報を取ろうとする人だということがこの「謝辞」にはにじみ出ていると思います。これはフィールド・ワークを手法とする社会科学者であれば当たり前なのですが、とかく統一教会に対する評価が直接体験した第一次情報ではなく、噂に振り回されがちな傾向がある中では、彼女の研究姿勢の価値がわかる文章だと思います。ユーモアのセンスもあります。

 次に「序文」が来ます。序文の前半は、統一教会に対する社会に評判がいかに悪いものであるかという描写から始まります。食口の方であれば、ここを読んだだけでうんざりしてしまうような内容なのですが、こうした悪い噂を繰り返すことが本書の目的ではなく、メディアを通して人々に認識されている「イメージ」と、実際に調査をして得られた第一次情報の「ギャップ」を表現することが本書の狙いの一つであると思います。

 それにしても、西洋において宗教団体としての統一教会は、どの国においても社会を脅かすほど大きな教勢になったことがなく、犯罪や不法行為に関わったこともないにもかかわらず、実態とかけ離れた噂や評判によってここまで執拗に叩かれるのはなぜか、ということを考えざるを得ません。常識的・合理的には、そこまで迫害されなければならない理由は見当たらないからです。およそ社会学的な分析とはかけ離れていますが、「悪くないにもかかわらず悪魔のごとく嫌われる」という事実は、サタン世界における神の摂理の最前線という統一教会の位置を物語っているのではないでしょうか。

 序文の中盤では、まず統一教会に関する客観的事実を紹介した上で、統一教会信者(ムーニー)の自己像と統一教会像は、部外者の理解とは180度異なっており、まさに「真逆」の像を描いていることが指摘されます。次に、「洗脳」という問題に関するイントロ的な説明に入っていきます。統一教会が「洗脳」を行っているかどうかということは、本書全体を通して明らかにしていくテーマであるため、ここでは結論めいたことは言えないのですが、とりあえず「洗脳」という概念が極めて曖昧であり、恣意的に用いられているということは早くもここで指摘されていきます。

 バーカー博士は、「多くの人々にとって、誰かがムーニーになることを『選択』するなどということはあまりにも信じられないことに思われるので、その疑問の最も簡単な解明は、そもそもそのような選択が成されるということを否定することである。」「洗脳のテーゼは明らかに単純化の利点をもっている。一見したところそれは、そうでなければ説明不可能なことを説明しているように見える。改宗の責任はもっぱら洗脳者が負うことになるので、それによって関係者や両親や世間は、非難を免れることができるのである」と述べています。要するに「洗脳」や「マインドコントロール」といった概念は、一見理解不能だと思える対象に対して、真剣に向き合い事実を確認し分析しようという態度を捨て去って、単純化することによって思考の外側に追いやって心理的な安寧を得ようとして生み出された概念なのだということでしょう。

 とりわけ親は、自分の子供が統一教会の信仰を自ら選択したとは情的に受け入れがたいということと、その結果に対して、自分の育て方に問題があったのではないかという良心の呵責から逃れるために、自分の子供を「可哀想な犠牲者」と見る「洗脳」のテーゼに飛びつくことにより、心の安定を得ようとしているのではないでしょうか? しかし、それは事態を単純化してとらえ、事実から目を背けることになるので、問題の真の解決には至らないのだということです。

 「序文」は続いて、この本の各章でどんなことが扱われているかを簡潔に説明しています。序文の最後にバーカー博士が語っていることは、社会科学者としての彼女の信念を示したものであると思います。私は東京工業大学の出身で、神学を学んだとはいえ背景は自然科学の人間です。自然科学が方法論として重要視するのは、データによる実証主義と再現性です。私の専攻は有機合成化学でしたが、ある薬品とある薬品を同一条件下で反応させれば、全く同じ化合物が出来上がらなければなりません。そのことを化学雑誌に論文として投稿すれば、世界中の化学者が実験で再現して、そこに書かれていることが本当かどうかを検証することができるのです。そのためにデータを公開し、再現性のテストを経ることによって「正しい」と認められていくのです。

 社会科学は扱っている対象が生身の人間であるため、自然科学で行うような厳密な再現性のある実験を行うことは出来ないでしょうし、結果を分析して結論を出す際にも主観的な要素が入り込んでくる余地はあると思います。しかし、「科学」である以上は、単なる「意見」や「解釈」ではない、データによって実証される領域があるはずです。バーカー博士の研究には、そこの部分を徹底的に追求した凄味があると思います。

 「洗脳」や「マインド・コントロール」があるとかないとか主張する前に、あなたはその対象そのものと向き合って、きちんとデータを取ったのか? 私はこういう方法論で、このようなデータを取って、こういう結論を出した。それをすべてここに公開する。もし反論したいなら、あなたも対象そのものと向き合って調査し、データに基づいて立証すべきだ、ということをバーカー博士は言いたいのです。

 こうしたことを理解した上で、以下のバーカー博士の言葉を読めば、その重みが伝わってくるのではないかと思います。
「私の希望は単に、この本を読んだ人が、なぜ人々はムーニーになるのかをより理解しやすくなることだけではない。私はまた、私の結論に同意しない人々が、ただ単に『なるほど、誰もが自分自身の意見をもつ資格がある』(私が論争を始めることを期待して公然と異を唱えたある『専門家の証人』は、かつてそう言った)と言うのではなく、私が提示したデータと議論に真正面から取り組むことができるように、自分が十分な明瞭さと十分な経験的詳細さをもって論証できていればよいと思う。」
「社会学研究に取り組む者は誰でも、社会現象によって提起された複雑な疑問に対する決定的な答えに到達することを望むことなどできないが、私は、本書が単なる意見以上のものを提供することを願っている。」

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