「霊感商法」批判の視点(1)
1.異なる世界観の激突
霊感商法はマスコミによって大きな社会問題として取り上げられ、批判された。これはこの問題を担当した弁護士たちの主張が、そのままマスコミを通じて流されたためであるが、その批判の中心的なポイントとは何だったのであろうか? 日本弁護士連合会(日弁連)が昭和62年7月17日に提出した第一回意見書は、霊感商法は「暴利行為」であると同時に、購入者に強い不安感を抱かせて契約に追い込んでいく「不安商法」であり、「詐欺商法」「恐喝商法」であると述べている。(注1)
霊感商法が暴利であったのかどうかという問題については、原価と販売価格のバランスや、商品の価値に照らし合わせて判断されるべき問題であり、それは本質的に商売上の問題であるので、宗教的観点からコメントすべき性質の問題ではない。しかし、一部の行き過ぎた行為を除いては、霊感商法が「詐欺」や「恐喝」であったとする見方は問題である。なぜなら霊感商法は、それが形式的には「販売行為」という形を取っていたとしても、その背後には極めて宗教的な動機が働いていたからである。このことを度外視しては霊感商法の本質を語ることはできない。霊感商法の背後にあった宗教理念については、すでに第三節において述べたように、それは「統一原理」と同じではない。しかし、それが基本的に真摯な動機に基づくものであったことを私は疑わないし、その宗教的な真理性を否定しようとはしない。
ところが日弁連の意見書は、霊感商法の背後にあった宗教理念や、壷や多宝塔の霊的恩恵を信じて購入した人々の信仰を頭ごなしに否定している。この意見書の中には、霊感商法が「詐欺商法」であることを立証するための記述として次のような表現がある。
「多くの場合、販売者側は、商品には不安原因を解消する効能がある旨の虚偽の事実を言って購入者をだまし、これを信じて錯誤に陥った購入者から代金を受けとっている」。
すなわち、販売者側の紹介する商品の霊的効能を「虚偽の事実」と決めつけ、これを信じて購入した人々は、「錯誤に陥った」のだと決めつけているのである。(注2)
このことは日弁連の主張する「被害」の概念と密接に関わっている。日弁連の第一回意見書は、「霊感商法被害者全国実態調査集計結果」として昭和62年4月末までに弁護士会と都道府県消費生活センターがまとめた被害人数を算出しているが、その数字の算出方法として日弁連は
「霊感商法の形態から違法な商法であると認定、それに関する相談などをすべて『被害』だと判断した。たとえ購入に満足した人の場合でも、勧誘手口は同じように違法なので、やはり被害とみなす立場をとっている」
と説明しているのである(「朝日新聞」昭和62年7月18日付)。
これは開運商品を購入した人は、それを感謝している、感謝していないに関わらず、またそれを信じている、信じていないに関わらず、すべて「虚偽の事実」を語られることによって「錯誤に陥った」のである、と主張していることになる。(注3)
これはもはや実際に存在する「被害者」についての冷静な分析ではなく、唯物的なイデオロギーに基づいた宗教に対する攻撃というほかはない。「霊感商法=悪、被害弁連=善」という徹底した二元論的世界観に至っては、宗教的色彩を帯びているといってもいいほどである。すなわち霊感商法批判のキャンペーンは、一種の宗教的信念にも似た強い感情によって支えられている運動であり、その強い感情は「被害者」と言われる人々のものではなく、一部の弁護士やマスコミが抱いているものなのである。要するに、ことの本質は特定の事件に関する冷静な分析ではなく、相異なる二つの「世界観」の激突なのである。
2.霊感商法批判のダブル・スタンダード
先祖の因縁を信ずる宗教団体の中には、それを解決するための宗教儀礼を行って、祈願料や供養料、お守り代や護摩札代などを取る教団もある。こうしたお金はその宗教団体の経費として使用されるのであるし、信者の側からすれば、それは功徳を積むための「お布施」や「献金」として理解されている。その構造は開運商品の販売と全く同じものである。したがって日弁連の主張する「被害」の概念を適応すれば、こうしたものもすべて「被害」の中に入れられなければならない。しかし、こうしたものを実際に彼らが問題視しないのは、同一の現象であっても、それをやっている主体によって見方を変える、強力なダブル・スタンダードが働いているためである。そのダブル・スタンダードの根底にあるものは、「敵意」や「好き・嫌い」といった極めて恣意的な感情である。それをあたかも客観的な主張であり、社会的正義であるかのように粉飾するのは、新宗教の迫害の歴史において常に起こってきたことである。
戦前の日本においては、新宗教は「淫祠邪教(いんしじゃきょう)」と呼ばれ、その教義や世界観を十分に吟味されることもないまま、頭ごなしに否定されてきた。新宗教を批判する人々は、それを信じる人々の心情を理解しようとはせず、そのような邪教が流行るのは社会の矛盾や歪みの現れであり、新宗教を信じる人々はみな無知で教育水準が低い人々なのだと決めつけた。天理教を初めとして、戦前の新宗教は「病気治し」を売りものにして教勢を伸ばしていったものが多いが、そのようないかがわしい儀礼にだまされて病気が治ると信じ、その上に金品をまきあげられるのは「蒙昧性」のあらわれだとして、問答無用に切って捨てられたのである。これらの信仰は即効的な御利益に基づくものが多かったが、そのような宗教性は深みのない低俗な欲求としてさげすまれた。(注4)
しかし、このようにして大衆の宗教性を切って捨てる人の姿勢は、泥沼の中で喘ぎ苦しむ人々を高台から見降ろしてあざ笑う人の姿に似ていないだろうか? そこには自分の力ではどうにもならない人生の苦境に追い詰められて、宗教の門を叩く人々の心情を理解しようとする姿勢は全く見られない。開運商品を感謝して購入し、新しい人生を出発する転機にしようとしている人々を、おしなべて「虚偽の事実」を信じて「錯誤に陥った」と決めつける心性も、これと全く同じものであると言えよう。
これはマスコミがこの問題を扱うときの姿勢にも言えることである。戦前に現れた新宗教は、当時発達しつつあった大衆ジャーナリズムの格好の標的となり、暴露記事などの手法によって世間に悪評が広められていった。そして、ジャーナリズムを通過することによって新宗教に対する不安や警戒感がさらに増幅されるという、マッチ・ポンプのパターンが確立していったのである。
マスコミが特定の新宗教をターゲットとして批判キャンペーンを張るというこのパターンは、戦後も継承された。戦前の新宗教批判が教義の内容や国家転覆の陰謀など、思想的な側面を中心としていたのに対して、戦後の新宗教批判はその経済活動を批判するものが多くなった。そして伝統宗教と新宗教ではその扱い方に大きな差があるという点もまったく変わっていない。たとえばテレビで伝統のある神社仏閣が紹介されるときには、それが由緒ある建物であることや文化財としての価値が紹介されるのに対して、新宗教が巨大な神殿や本堂を建てたとなると、そのお金がどのようにして集められたのかに関心が集中し、「金儲け教団の散財」などと揶揄されるといった具合である。マスコミによる霊感商法批判キャンペーンも、このようなコンテクストの中でとらえられるべき問題である。
マスコミが新宗教を扱うとき、その教団の実態を公正に報道しようという気持ちは最初からないと言ってよい。彼らはどん欲な好奇心をもって、視聴者や読者が面白がるだろうと思われる部分だけを抽出し、できあいの社会的イメージに便乗してセンセーショナルに報道する。そしてたえず新たな教団を見つけだしては揶揄・中傷し、その情報が大量に消費されていく。いったんマスコミのターゲットとなった教団は、その教団の宗教的理念がどんなものであり、何を目指しているかといった本質的な部分はほとんど紹介されることもなく、ニュース性のある面白そうな部分だけが針小棒大に報道され、視聴者が飽きたころにはゴミ屑のように捨てられる。
(注1)「霊感商法」問題取材班『「霊感商法」の真相』世界日報社、1996年、p.62
(注2)同上、p.138
(注3)同上、p.178
(注4)砂山稔「淫祠邪教」(『世界宗教大事典』p.199)