紀藤正樹著『マインド・コントロール』の批判的検証08


このシリーズでは、紀藤正樹著『マインド・コントロール』を批判的に検証しているが、最終回の今回は、紀藤氏の説明する「マインド・コントロール」なる概念がいかに多義的で曖昧なものであるかを明らかにしたい。
実は、「マインド・コントロール」が多義的で曖昧であることは、紀藤氏自身が認めている。彼は自著の中で以下のように述べている。
「前にも述べたように、マインド・コントロールがあったからといって、ただちに逮捕されるわけでも、ただちに違法と認定されるわけでもありません。しかし、マインド・コントロールは不法行為や犯罪を密接に結びついていることがよくあります。マインド・コントロールは多様で多義的な概念であって、狭い意味から広い意味までさまざまに使われ、ときにわかりにくかったり、曖昧だったりするのです。」(p.72)
そこで紀藤氏はこの多義的で曖昧な「マインド・コントロール」概念を視覚的に整理し、それと犯罪や民法上の不法行為の関係を一つの図にまとめている。それが著書の73ページに登場する図である。

73ページの図
この図に対する紀藤弁護士の説明は以下のようなものだ。
「いちばん外側に、もっとも広い意味でのマインド・コントロールという広大な領域があります。その中に、私たちがこの本で問題とする、違法性を問われかねないマインド・コントロールの領域があります。これは犯罪にならないとしても犯罪に近い領域(薄いグレー)と、はっきりと犯罪と認められる領域(濃いグレー)に分かれます。」(p.74)
「マインド・コントロール」を一つの概念(concept)として理解しようとするとき、この73ページの図とその説明には重大な欠陥があることが分かる。少しでも哲学をかじったものなら、概念は個々の物事の細かな相違点を無視して、それらが同一であるかのように扱うという意味で抽象的なものであることは知っている。個々の事象の相違点をどの程度無視するかによって、その概念の広さが決定する。さまざまな条件を付けて相違点にこだわればこだわるほどその概念は狭くなり、より特定の事象を指すようになる。このとき、その概念の意味内容は濃くなる。一方で、個物の相違点にこだわらず、できるだけ多くのものを含むようにすればその分だけ概念は広くなり、それに伴って意味内容は薄くなる。したがって、より限定的な概念ほどイメージしやすく、より包括的で抽象的な概念ほど具体的なイメージを抱きにくくなるのである。
実際に存在するものは、一つとしてまったく同じではない。概念(concept)は、こうした実在の個物を種類に分け、分類化し、カテゴライズし、クラス分けをするのに貢献する。したがって優れた概念は、種々雑多な実在から共通の性質を抽出し、その共通の性質に当てはまるものと当てはまらないもの間に明確な「線引き」を行い、分類やクラス分けを可能にするものでなければならないのである。
ところが、紀藤弁護士の提示する「マインド・コントロール」なる概念は、彼の専門とする法律の分野においてさえ、まったく線引きやクラス分けが不可能な概念なのである。すなわち、同じ概念が合法的行為にも、民法上の不法行為にも、犯罪行為にもなるようでは、概念としてあまりに広すぎて(多義的すぎて)使い物にならない。具体的な意味内容がほとんどない概念なのである。
彼が73ページの図で言っていることは、かいつまんで言えばこういうことである。
「一口にマインド・コントロールと言っても、教育ママと子ども、スポーツ選手とコーチ、キリスト教やイスラム教など、合法的なマインド・コントロールもあれば、民事訴訟の対象になり、違法と認められるようなマインド・コントロールもあれば、詐欺、強要、恐喝、暴力、強姦などに該当し、犯罪と認められ、刑事事件となるようなマインド・コントロールもありますよ。」
なるほど確かに紀藤氏の言うところの「マインド・コントロール」は「広大な領域」だ。試しにこの「マインド・コントロール」を「行為」や「影響力」に置き換えてみれば、次のようになる。
「一口に行為(影響力)言っても、世の中には合法的な行為(影響力)もあれば、民事訴訟の対象になるような、違法と認められるような行為(影響力)もあれば、詐欺、強要、恐喝、暴力、強姦などに該当するような、犯罪と認められ、刑事事件になるような行為(影響力)もありますよ。」
ここでは行為や影響力がそれ自体は意味内容をほとんど持たない包括的な概念であるのに対して、その中身が「合法」「違法」「犯罪」「民事」「刑事」などの概念によって細かく分類されていることが分かるであろう。要するに、「マインド・コントロール」なる概念は、ここでいう「行為」や「影響力」と同じくらいに広大で意味内容の乏しい概念なのである。
まとめると、紀藤弁護士の言う「マインド・コントロール」は、あまりにも多義的すぎて、「行為」や「影響力」といった概念と同じくらい意味内容のない言葉である。法律家が解説しているにもかかわらず、「マインド・コントロール」は合法的行為にも、民法上の不法行為にも、犯罪行為にもなり得るのだから、もはや具体的に何を指しているのか分からず、混乱を招くだけである。要するに、こんな言葉は必要ないのである。
しかし、「行為」や「影響力」は価値中立的な言葉であるが、「マインド・コントロール」にはネガティブなニュアンスが込められているので、合法的な行為を不法行為や犯罪と結びつけて非難するような偏見を助長する危険性があり、その意味で有害な言葉である。したがって、こんな言葉は使わない方が良いのである。
著書の75ページから紀藤氏は「マインド・コントロール」と「洗脳」の違いについて説明しているが、ここでも奇妙な論理を展開している。彼は文化大革命時代の中国は国民に対して「洗脳」を行っていたと述べ、「洗脳がマインド・コントロールと異なるのは、単純な精神操作にとどまらず、隔離、拘束、監禁、暴力(ときには拷問)・薬物使用といった外形的な行為がともなう点だと考えられています」(p.76)と紹介している。
こうした拘束、監禁、暴力、薬物使用自体が重大な人権侵害であり、国際法に違反すると私は思うのだが、紀藤氏はそのことを非難する様子はなく、むしろ「洗脳は監禁状態がなくなれば解けやすいのです」とあっさりスルーしておいて、「マインド・コントロール」は本人が思想や信念を自分で選んだかのように錯覚しているので、「信念の体系」が出来上がっているため、環境が変わっても自分からその体系を崩そうとしないから、もっと問題だと言わんばかりなのである。
紀藤弁護士は著書の54ページで、文化大革命時代の中国がやっていたことは、「マインド・コントロールではない」と言っている。その理由はどうやら、当時の中国の「法規範」や「社会規範」から逸脱していないのでOKということらしい。彼の「マインド・コントロール」の定義に基けばそうなるはずだ。どうも紀藤弁護士の価値判断では、「洗脳はOK、でもマインド・コントロールはダメ」ということになりそうである。
それでは紀藤弁護士が警鐘を鳴らしている、「マインド・コントロール」で駆使される心理的テクニックとはどんなものなのだろうか? 彼自身の言葉を引用すれば次のようになる。
「そのやり方、手法、手段は、人が誰でも持っているごく一般的な心理に働きかけ、心を惹きつけていくもので、別に怪しげな霊能者やカルト的な集団だけが使う方法ではありません。有能なセールスマン、広告宣伝担当者、オピニオンリーダー、政治家なども、その方法を駆使します。優れたテレビCMや新聞・雑誌・インターネットなどの広告にも、同じ方法があふれています。」(p.78)
「いずれも、セールスや広告分野では長年の経験から非常に効果的とされ、確立されている手法です。」(p.80)
要するに、これらは誰でも使っている手法であり、全く合法的な手法ということになる。手法そのものに違法性がないとすれば、「カルト」と呼ばれている一部の団体だけが同じ行為に対して責任を追求されては、「法の下の平等」という権利が保障されないことになってしまう。
いったい、紀藤弁護士の善悪の判断基準はどこにあるのだろうか? 中国共産党が、監禁や拷問や薬物を使って「洗脳」を行っても、それはその国の「法規範」や「社会規範」からは逸脱していないので、外国人がとやかく言う問題ではない。イスラム教の国で他宗教に改宗した人が処刑されても、異文化圏の人がとやかく言うのは「大きなお世話」である。しかし、日本国内で「カルト」と呼ばれる団体がセールスや広告で長年使われている手法を用いたら、それは「マインド・コントロール」と呼ばれ、大いに警鐘を鳴らすべきである。全体を読めば、これが紀藤弁護士の価値観であると判断せざるを得ない。
紀藤弁護士の「マインド・コントロール」の定義は、要するに「常識から逸脱した影響力」である。しかし、社会通念や社会常識は、場所や時代とともに変わるものであることは、紀藤弁護士自身が著書の59ページで認めている。中国には中国の、北朝鮮には北朝鮮の、イスラム国にはイスラム国の、日本には日本の常識があるのだから、「その常識から逸脱するような生き方をしちゃいけませんよ」と彼は言いたいのだろうか? (了)

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